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君知るや、神社本庁「憲法記念祭」を

憲法記念日と憲法記念祭

 昭和22年5月3日、日本国憲法が施行された。
 5月3日憲法施行の日は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月公布施行)で「憲法記念日」と定められ、今日に至るまで国民の祝日の一つとなっている。
 例年、憲法記念日には、護憲や改憲様々な立場の憲法関連集会や行事が開催されているが、じつはこの日、神社界においても戦後まもなくから現在まで「憲法記念祭」という祭祀が行われていることをご存知だろうか。

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日本国憲法御署名原本 天皇の上諭と御名御璽が見える(国立公文書館ホームページより)

「文明の恵沢の大ならんことを祈願する」

 それでは憲法記念祭とは、どのような祭祀であろうか。祭祀の主旨と祭祀にあたり奏上される祝詞を見てみたい。
 神社新報は昭和23年12月、憲法記念祭の祭祀主旨を

日本国憲法の新たなる制定によつて、国民は自由を与へられ文化国家たるの実を具へるに至り、恒久の平和を理想とする国家が生まれたことを記念し、文明の恵沢のいよいよ大ならんことを神祇に祈願する。

( 神社新報、昭和23年12月20日)

と報じている。また祭祀にあたって関連行事として記念講話等の行われるべきことを記している。おそらくこれは神社本庁が昭和23年12月に通達した「国民の祝日当日神社に於ける祭儀取扱に関する件」に定められた祭祀主旨と同旨のものと思われる。
 また國學院大學教授、神社本庁教学委員などを務め、戦後神社界を教学などの面から支えた小野祖教は昭和24年4月、神社新報紙上で憲法記念日と憲法記念祭について、次のように述べている。

憲法記念日 五月三日の新憲法記念日は、日本国憲法の施行を記念し、国民の生長を期するといふことが休日となつた趣旨でありますから、我が神社に於いても、氏子崇敬者一同参集いたして憲法記念祭といふやうな名称の祭をやつて、記念講演など有意義な催を行はれることを期待します。
祭祀の主旨は「日本国憲法の新なる制定によつて、国民は自由を与へられ、文化国家たるの実を具へるに至り、恒久の平和を理想とする国家が生まれたことを記念し、文明の恵沢のいよいよ大ならんことを神祇に祈願する」といふことになつてゐます。

(神社新報、昭和24年4月25日)

 紙面は続けて、「憲法記念日当日祭」として神社本庁が発表した祝詞例文を掲載している。

掛まくも畏き某神社の大前に宮司氏名恐み恐みも白さく明治の大御世に天皇の深く遠く広く厚き大御心もて初めて定め給ひ敷かせ給ひし憲法も国情(くにぶり)の推移(うつろひ)の随に相応(ふさは)しからぬ条項(すぢ)どもの有るに依りて昭和二十一年其の世の在状(ありさま)に適ふべく新に日本国憲法てふ憲法をば掟て定められ翌年の五月三日といふ日に普く国内に施行はしめ給へりこの深く記念すべき今日の生日の足日に氏子崇敬者等諸参集ひて御祭仕へ奉り拝み奉らくを平けく安けく聞食し諾ひ給ひ高き尊き大御慮(おほみはからひ)以ちて国人ことごと憲法の高く尊き趣旨(むね)を深く正しく心に彫刻みて国の真柱(みはしら)国の大道と厳しく仰ぎ固く守りつつ各も各も負持てる職務に勤み励むべく導き進め給ひ名にし負ふ文化国家の事実(まこと)を弥高く挙げしめ弥広く現はさしめ給ひ世界永遠の平和に力を致さしめ給へと大前に御饌御酒を始め種種の味物を献奉り様様の芸能を奏でつつ恐み恐みも乞祈奉らんと白す

(同上)

 「国人ことごと憲法の高く尊き趣旨を深く正しく心に彫刻みて国の真柱国の大道と厳しく仰ぎ固く守り」、「名にし負ふ文化国家の事実を弥高く挙げしめ弥広く現はさしめ給ひ世界永遠の平和に力を致さしめ」といった祝詞の一節からは、神社界の新憲法への誇りと期待が看取される。
 なお、この祝詞例文は、後々まで憲法記念祭の祝詞例文となったのではなく、後日あらためて別の祝詞例文が例示されているようである。新たな祝詞例文の全文は確認できないが、そこには「此乃憲法乃趣意乎深久省美……正志伎理乎顕左志米給比」といった一節があったそうだ。「この憲法の趣意を深く省み…」という一節も感慨深いものがある。
 また神社新報は伊勢神宮や明治神宮、石上神宮など大きな神社での憲法記念祭の執行の様子を報じている。

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憲法記念祭などについての意義を語る小野祖教の談話を掲載する神社新報記事(昭和24年4月25日)

憲法記念祭が定まるまで

 憲法記念祭が神社本庁の祭祀として定まった経緯は、およそ次のようなものであった。
 昭和21年2月制定の神社本庁「庁規」の祭祀関連規定には、神社の祭日が定められているが、それはあくまで大正3年1月勅令第10号「官国幣社以下神社祭祀令」に準拠するものであった。
 そのため翌年の昭和22年3月に「庁規」の祭祀関連規定が改正され、神社の祭日について、大祭の祈年祭を春祭に、同じく新嘗祭を秋祭に変更し、また中祭の紀元節祭や天長節祭、明治節祭が削除されるなどした。同時に、国の祝祭日については、「公共福祉の祭」という観点から祭祀を行なうとした。当時の神社新報は、これらの措置を「国家神道的な疑惑をもたれる惧れあるものを是正し、新事態に即応するため」と解説している。
 そして祝日法の公布施行に伴い、神社本庁は昭和23年12月「国民の祝日当日神社に於ける祭儀取扱に関する件」をもって祝日法に定められた各祝日に祝日当日祭を執行するよう通達した。ここに憲法記念祭が定まるのである。
 なお昭和32年6月「祭祀規定の一部を改正する規定」において、それら祝日当日祭は中祭の国民祝日祭と規定される。

前史としての憲法実施一周年記念祭

 このように考えると、憲法記念祭はあくまで祝日法に連動し公共福祉の祭の観点から行われるべき祝日当日祭、国民祝日祭であり、成人の日の成人祭やこどもの日のこども祭などとかわらない祭祀であって、いくつかある祝日の祭祀のなかの一つであり、憲法記念祭をことさら注目する必要はないともいえる。
 しかし神社本庁は憲法施行一周年直前の昭和23年4月、「憲法の趣旨を銘記せしめ併せて世界の平和と福祉とに寄与する」という趣旨のもと、翌月5月3日を期して全国各神社で「憲法実施一周年記念祭」の執行を各神社庁に通牒し、次のような祝詞例文も示している。

憲法実施一周年記念祭 祝詞例文
掛麻久母畏伎某神社乃大前爾宮司氏名恐美恐美母白左久曩爾明治天皇乃広伎遠伎大御心以テ大御親授給比令敷給比志帝国憲法(オホミクニノノリ)波志母不図(ユクリナ)伎国情(クニブリ)乃推移(ウツロヒ)乃随爾改米制定(サダ)米良礼去年乃五月三日登言布爾国内爾施行(シキオコナ)波志米給比志與里速久母一年乎迎閉志今日乃此日乎記念(カタミノ)日登斎定米御氏子崇敬者等(ラ)諸参列里テ御祭仕奉良牟登須故是乎以テ大前爾奉留御饌御酒乎始米種種乃物乎平介久安介久聞食志宇豆那比給比テ大神等(タチ)乃高伎尊伎恩頼乎蒙里奉礼留国民乃悉心新爾憲法(オホミノリ)乃大趣旨乎戴持知テ各自負持都本務(モトツツトメ)爾倦麻受撓麻受勤励差氏御国乃基礎乎弥固米爾固米将来(ユクテ)爾輝加志伎光明登希望登乎与給比テ安国乃足国登成幸給比世界乃国国登相共爾睦毘和美テ永久久志久立栄衣志米給閉登恐美恐美母乞祈奉良久登白須

(神社新報、昭和23年4月26日)

 「御国乃基礎乎弥固米爾固米将来爾輝加志伎光明登希望登乎与給比テ」、「安国乃足国登成幸給比世界乃国国登相共爾睦毘和美テ」といった祝詞の一節、すなわち将来に輝かしき光明と希望とを、あるいは世界の国々と相共にといった一節は、通常の祝詞とはまたいささか趣を異にし、新憲法制定の当時の人々の感動が込められているように感じられる。
 憲法実施一周年記念祭の当日は生憎の小雨だったようだが、当時渋谷にあった神社本庁では午前10時より厳粛に祈願祭が執行され、明治神宮やその他の各神社でも祭祀が行われたという。
 なお神社本庁は、この憲法施行一周年の祭について日本宗教連盟にも申し入れ、趣旨に賛同した同連盟が各宗教各宗派に通牒したため、各地で各宗教各宗派による記念の行事も行なわれたそうだ。
 ともあれ憲法実施一周年記念祭に関する通牒が昭和23年4月になされたということは、昭和23年7月の祝日法以前の通牒であり、当然憲法記念祭が定まる昭和23年12月の「国民の祝日当日神社に於ける祭儀取扱に関する件」以前のことでもある。
 憲法記念祭は、直接的には祝日法をうけて神社本庁がもうけた祝日当日祭、国民祝日祭の一つであるが、いわばその「前史」として憲法実施一周年記念祭があるということは、神社界としてもそれ相応の位置づけと重みを含む祭祀であるといってよいのではないだろうか。

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憲法実施一周年記念祭について報じる神社新報記事(昭和23年4月26日)

「奇妙な記念日」「曖昧な祭典」

 ただし憲法記念祭には、当初より神社本庁内部で批判や疑問がついてまわっていたのも事実である。
 いうまでもなく神社本庁は、憲法制定当初から新憲法への疑義を呈している。例えば神社新報社説「新日本国憲法の制定に際して」(昭和21年10月14日) は、国会で成立したばかりの日本国憲法に対し、天皇条項や政教分離関係を中心にその不備を指摘するなどしている。
 また昭和40年代に入ると神社本庁が国民精神昂揚運動や憲法改正運動に力を入れ始めたこともあり、憲法記念祭に対して各神社の神職から厳しい意見が提起されている。
 例えば昭和43年の神社本庁評議員会では、ある評議員が「自分の神社では憲法記念日には国旗に喪章をつけて社頭に掲揚している」、神社本庁は憲法改正を訴えているのだから「憲法記念日の行事は神社では一切やらぬことにすることから始めてはどうか」との旨の発言をしたそうだ。その他にも、自分の信念と相容れない憲法記念祭の祝詞を神前に奏上できない、これまで憲法記念祭など行ったこともないといった神職の声や、憲法記念祭はじめ各祝日の祭祀を「奇妙な記念日」、「曖昧な祭典」などと手厳しく非難する記事が神社新報に掲載されることもあった。

「民族精神に副はないものがある」

 昭和46年6月、「所謂『神道指令』の強制によって失はれた神社の国家性を、可能な範囲において取戻し、皇室の御安泰と、国家・国民の繁栄を祈念する、神社祭祀の真姿を顕現し得るやう、戦後の神社祭祀の在り方を是正することが急務である」として、ついに「祭祀規定の全部を変更する規定」が通達され、春祭は祈年祭に、秋祭は新嘗祭に戻される一方、「祝日としてはふさはしいが、中祭とするに及ばぬもの、また必ずしも民族精神に副はないものがある」として国民祝日祭がいったん削除され、新たに歳旦祭、元始祭、紀元祭、天長祭、明治祭および「その他これに準ずる祭祀及び神社に由緒ある祭祀」が中祭と規定された。「民族精神に副はない」祭祀、すなわち憲法記念祭である。
 また同年9月、「国民の祝日当日神社に於ける祭儀取扱に関する件について」が通達され、昭和23年12月の同名の通達は廃止された。これをもって国民祝日祭は廃止となり、憲法記念祭も廃止となった。そして、これを機に伊勢神宮はじめ各社で憲法記念祭が行なわれなくなっていった。
 しかし、この通達は同時に、同年6月の祭祀規定の変更に関し中祭と規定された歳旦祭、紀元祭、天長祭、明治祭以外の国民の祝日の祭祀について、「その他これに準ずる祭祀及び神社に由緒ある祭祀」として祭祀を執り行い得ることとなっている。したがって各神社の任意で憲法記念祭を継続して行うことは可能であり、万一継続するならば従前どおり中祭での祭祀となるということである。
 事実、インターネットで検索すると、今でもいくつかの神社で中祭をもって憲法記念祭が行なわれている様子が確認できる。すなわち憲法記念祭は廃止されたものの廃絶したわけではなく、今なお続けられている祭祀であり、これからも続けられ、また神社の任意によってはこれから新たに始められることも十分ありえる祭祀なのである。当然今年もどこかの神社で行なわれることであろう。

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神社本庁の祭祀規定の変更等に基づき、伊勢神宮で憲法記念祭の祭祀が廃止されたことを報じる神社新報記事(昭和48年4月2日)

憲法と神社、神道

 以上、憲法記念祭の歴史と現在についてごく簡単に見てきた。その成立と変遷を見ると、憲法記念祭は戦後神社界、神社本庁をある意味で象徴する祭祀の一つといえるかもしれない。
 小野祖教は昭和22年12月、神社新報において大祓を論じるなかで

 神社神道では個人が清まつた丈けでは目的は達しない。自分だけ神に近づかうとしても、周囲の社会や環境自然が同時に清まり整はなくては神の恵の完全な実現は期待し得ない。だから、皆と一緒によくなると云ふことが一番大切であると思ふ。
 この共同社会的な考へ方が神道の一番大切な点であるとすれば、私は新憲法の十二条に「この憲法が国民に保障する自由及び権利は……常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とか、第二十五条の「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を為む権利を有する。国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と云ふやうな考はすべて神社神道の信仰に最も適合した思想で、大祓といふものも共同祓の精神全国家生活社会生活の上に徹底させることが大切だと思ふ。

(神社新報、昭和22年12月22日)

と述べている。
 また小野が先鞭をつけるかたちとなった戦後の神道の教学について、それをさらに精緻に、また高度に神学として展開していった國學院大學学長などを務めた上田賢治も日本国憲法について、

独立国家の国民が、他民族(多文化)の発想・言語によって、しかも明確な政治目標を持って作製された法の基本を、何の修正をも加えないまゝ、政治的独立後も、数十年に亘って、その原理に忠実(即ち適応でなく、適合)であろうとしているのである。批判することは易しいが、もし自国民の伝統と文化とに信を置くとすれば、筆者はその事実に、何らかの<真>を見出さねばならないとも考える。

(上田賢治『神道神学論考』原書房)

という。上田はまた日本国憲法の象徴天皇の問題について天皇による「治らし」の御業と「象徴」について、「サイン」「シンボル」といった概念を用いて検討した上で、憲法における「象徴」の表現の的確さを確認し、

さうした了解に立って、憲法の第一条を読み返してみる時、そこから受ける印象は、大きな変化を示すのではないだらうか。考へ方によれば、これほど適格に天皇の示される「治らし」の御業を表現しうる言葉は、他に見出し難いと言ってもよい程である。

(上田賢治『神道神学』神社新報社)

とも評価している。
 憲法について様々な意見や議論があってよいし、神社界が憲法改正を訴えるのも自由ではあるが、神社本庁が憲法記念祭という祭祀を定めたこと、それは戦後神社界において忘じがたい、けして小さくない歴史であって、今もなお続いている祭祀、生きている祭祀であることは間違いない。そして戦後神社界を指導した神社人、神道人たちが新しい憲法に何がしかの<真>を見たこと、見ようとしたことは、憲法記念祭という祭祀とともにあらためて想起されてもよいのではないだろうか。

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「こんぴらさん」で知られる金刀比羅宮での憲法記念祭の様子(金刀比羅宮ホームページより) ※なお金刀比羅宮は最近、神社本庁との被包括関係を廃止したが、この画像の憲法記念祭の執行時(2017年)は少なくとも神社本庁の被包括関係にあった

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