彰義隊まとめ。彼らはなぜ戦ったのか
先日、上野公園にある西郷隆盛像や彰義隊戦死之碑など幕末・明治時代関連の史跡を訪ね、そこで見たことや感じたことを主題とする記事を書いた。その中には「彰義隊戦死之碑」という、戦死した彰義士を供養するための墓碑があった。
これを機に、彰義隊に関するまとまった記事を書いてみたいと思い、筆をとることにした。
ここでは、彰義隊とはどんな組織か、何をした人たちなのか、基本的な情報をまとめ、それに続いて彰義隊関連の史跡を訪ね歩いたときの撮影写真を掲載している。最後は、彰義隊について思うことや考えていることなど、個人的な考えや歴史観を述べた内容になっている。
彰義隊とは
彰義隊は、慶応4年(1868年)、徳川家に忠誠を誓う幕臣を中心に結成された。鳥羽伏見の戦いに敗れて上野寛永寺に蟄居する徳川慶喜の護衛を主な任務とし、江戸市中の見回りや犯罪の取り締まり、住民の保護など江戸の治安維持も職務とした。
彼らは薩長主導の強権政治をよしとせず、官軍による江戸占領後も抵抗する構えを見せた。上野山寛永寺にこもり上野戦争を戦うも、軍備に勝る討幕軍に太刀打ちできず、半日で鎮圧されることになる。
上野戦争に至るまでの経緯
慶応3年(1867年)徳川慶喜によって「大政奉還」が実現。260年間続いた徳川政治は終わり、政権は朝廷へ返上された。
政権は幕府から離れたのの、将軍職にある徳川慶喜の権力は以前として絶大なものがあった。薩長両藩は、実権を完全に掌握するには徳川慶喜を排除し、武力でもって幕府を打ち倒さなければならないと考えていた。
討幕をするにしても大義名分がなくてはならない。そこで薩長は、岩倉具視をはじめとする討幕派公家衆と謀議を重ね、天皇から幕府を倒すべしという密勅を得るための朝廷工作に奔走する。この工作は実を結び、討幕の密勅は薩長の両藩主に授けられた。
「賊臣」となった徳川慶喜を討つべく、薩摩・長州および芸州から兵力が集められ、討幕軍が組織される。さらに天皇による「王政復古の大号令」が発せられ、慶喜の将軍職は剥奪された。そればかりか、幕府は領地を没収され、一藩同然の地位に転落する。このように、薩長は慶喜や幕府に対して侮辱ともいうべき仕打ちをたたみかけることで、相手を挑発し、幕府との戦争に持ち込もうと企てた。
薩長の横暴に対し、旧幕臣らは当然のごとく激怒した。薩長討つべしとの声が沸き起こり、会津・桑名両藩と新撰組を主力とする薩長討伐軍が編成される。そこへ、江戸の薩摩藩邸に幕府から差し向けられた藩兵が討ち入る「薩摩藩邸焼き討ち事件」が追い打ちをかけ、薩長両軍と幕府軍は鳥羽伏見で激突した(鳥羽伏見の戦い)。討幕側に翻る錦の御旗をみて驚いた慶喜は、朝敵になることを怖れ、側近らとともに大阪城を脱出。品川沖に碇泊していた幕府海軍の「開陽」に乗り込み、江戸へ逃亡した。
徳川慶喜は朝廷に謝罪と恭順の意を示すため、上野山寛永寺にこもって謹慎生活に入る。この状況を看過できず旧幕臣らが同志らを糾合して結成したのが「彰義隊」である。彼らは徳川家の再興を願い、反薩長の旗印を掲げる武力集団として活動を開始する。寛永寺には慶喜を護衛するために隊士たちが屯集し、その数は日を追うごとに増えていった。
討幕軍は慶喜を追討すべく、京を発って東海道を下り江戸へ向かう。江戸進撃を阻止したい幕府側は、幕臣の勝海舟と山岡鉄舟が奔走し、討幕軍武家参謀の西郷隆盛を説き伏せ、江戸城の接収と武器引き渡しを条件に和戦に持ち込む。江戸は流血を見ることなく官軍の支配下に入った。
ただ唯一抵抗を見せたのが彰義隊である。彼らは官軍の出した解散命令を無視して上野山にこもり続け、徹底抗戦を主張した。上野山には彰義隊討伐のための軍勢が派遣される。彰義隊はこれを迎え撃つべく、戦争の準備に入った。
上野戦争
1868年(慶応4年)5月15日、官軍と彰義隊との間で上野戦争が勃発した。
官軍側の総指揮は、長州藩の大村益次郎が執り、西郷隆盛指揮の薩摩兵部隊が主戦場となる黒門前に集中した。不忍池方面には肥後藩(熊本)、因幡藩(鳥取)の兵、谷中方面には長州、肥前、久留米などの藩兵を置き、北西の日暮里・根岸方面は敵軍の逃走路とするため故意に空ける陣形を敷いた。
熾烈を極めたのが黒門前で、小銃隊や砲兵隊からなる薩兵部隊が容赦なく銃弾や砲弾を浴びせかけた。これに対し彰義隊は刀や槍を振るって応戦した。
ただ、威力抜群のアームストロング砲をはじめ、西洋式のすぐれた火器を前になすすべもなく、死体の山を累々と築いていく。上野山には次から次へと砲弾が撃ち込まれ、またたくまに火の海と化して伽藍や寺坊はことごとく焼尽した。
午後五時ごろには勝敗はほぼ決した。彰義隊はほぼ壊滅状態となり、わずかに生き残った者が日暮里・根岸口から脱出し、散り散りに消えていった。
上野戦争後の彰義隊
この上野戦争で彰義隊士の死傷者は266人とされる。彰義隊の数は最大で3000人規模とされるが、開戦と同時に逃げ出した者も多く、実際に戦闘に参加したのは1,000人足らずだったと言われる。
官軍の死傷者は120人前後といわれるが、あくまで公式の発表であり、正確な犠牲者数はわかっていない。
彰義隊の残党の多くは捕縛され、その場で惨殺されたり牢獄に収容されたりした。民家や商家にかくまってもらい、残党刈りの追及を切り抜けた者もいる。なかには武器を捨てず戦い続けた者もいた。彼らは北陸や会津方面に落ち延びて北越・東北戦争に参戦し、あるいは榎本武揚率いる幕府海軍の艦船に乗り込み箱館戦争を戦った。
戦死した隊士の亡骸は上野山にそのまま放置されたため、腐乱がすすんで酸鼻を極める状況となった。これに心を痛めた南千住の円通寺住職・佛磨が新政府に対し隊士たちの供養を申請。許可が下りて上野山王神社跡(現上野彰義隊戦死之碑)に遺体を集めて火葬され、遺骨が埋められた。遺骨の一部を円通寺が引き取り、墓も建立して供養した。
明治2年、寛永寺子院・寒松院ならびに護国院の住職によって墓碑がつくられた。ただ墓碑は政府の目もあり建立されず隊士の遺体が埋葬された上野山に埋められた。明治7年(1874年)、上野戦争の生き残り隊士らが彰義隊墓所建立を政府に嘆願し、許可が下りて墓所の建立となった。上野公園にある「彰義隊戦死之碑」は、その墓が再建されたものである。
彰義隊員として生きた男たち
天野八郎
天野八郎は、彰義隊結成時の副頭取。上野戦争では実質的な司令官として陣頭指揮にあたった。
天保2年(1831年)生まれ。上野国甘楽郡磐戸村出身。地元の名主の家に生まれ、慶応元年江戸常火消し与力広浜利喜之進の養子となり、翌年旗本天野氏を称し八郎と改名。明治元年、鳥羽伏見の戦いに敗れ朝敵となった徳川慶喜の復権を目指し、旗本の同志らとともに彰義隊を結成。隊士たちによる投票で副頭取に選出された。
慶喜の水戸蟄居後も強硬論を唱え、官軍相手に徹底抗戦すべしと主張。そのうち頭取の渋沢成一郎と意見が合わなくなり、渋沢脱隊後は事実上隊の指導者となる。
上野戦争では谷中口の守備隊として官兵と戦い、敗れて上野山を脱出。音羽の護国寺に逃れ、本所の民家に潜伏しているところを捜索兵に見つかり、7月13日捕縛。明治元年11月8日獄中にて病死した。遺骸は長らく小塚原に遺棄されたままだったが、明治23年円通寺によって改葬された。
渋沢成一郎
渋沢成一郎は彰義隊結成時の頭取。天保9年(1838年)、武蔵国榛沢郡血洗島生まれ。父は豪農渋沢文平。渋沢栄一は従兄弟にあたる。明治以後は喜作と名乗る。
幕末は尊皇攘夷運動に身を投じ、横浜異人館焼き討ちなどを計画。元治元年(1864年)、徳川慶喜の従臣平岡円四郎の仲介で栄一とともに一橋家家臣に取り立てられる。慶喜に認められ、軍制所調訳組頭や陸軍奉行支配調訳などを歴任。慶喜が政権を朝廷に返上すると、あくまで幕権の維持を説いてその動きに反対した。
幕軍が鳥羽伏見の戦いに敗れると、徳川慶喜の復権を目的に天野八郎らと彰義隊を結成。頭取に推薦されるが天野と対立し脱隊。「振武隊」を組織し、飯能で朝廷軍と一戦交えるも敗れ、その後榎本海軍に加わり箱館戦争に参戦した。
明治2年榎本軍の敗戦で捕らえられ獄に下る。明治5年に出所、渋沢栄一の助力で大蔵省七等出仕。以後、実業界で活躍した。明治45年75歳で没。
土肥庄次郎(松廼家露八)
幕臣として新政府軍と戦い、維新後は吉原の幇間(たいこもち)となって変わり種。
「薩長がきらい」という理由で彰義隊に加わる。上野戦争では黒門口を守り、得意の槍を振るって薩兵相手に敢闘した。戦況不利と見るや上野山を脱出。植木屋に変装するなどして官軍の追及をかわし、泉州堺まで落ち延びる。潜伏先の柔術道場で地元の門弟たちに稽古をつけるうち、土地の芸妓と深い仲となり、置屋の旦那におさまった。若い時分より遊び人で芸達者だった彼は自慢の喉と踊りで遊郭の幇間になり、「荻江露八」の名で芸者として活躍するようになる。
旧幕臣でありながら多芸、落ちぶれて食い詰める士族が多いなかで、露八の芸は身をたすく武器となった。明治19年には東京と名を改めた江戸の地に舞い戻り、「松廼家露八」と改名して活躍、榎本子爵(武揚)にも気に入られるほどの人気者となる。
明治36年11月71歳で没した露八の亡骸は、南千住の円通寺に葬られた。ここには維新のおり戦没した幕臣や彰義隊員たちの供養碑が建っている。同志たちと同じ場所で眠ることを、露八は生前強く希望していたという。
小川興郷
小川興郷は彰義隊員の生き残り。上野公園にある彰義隊の墓所は彼の運動により建てられた。
上野戦争に敗れ入牢。1869年に釈放され、徳川家を継いだ田安家をたよって静岡へ移住。まもなくして上京し、彰義隊戦死者の墓所をつくる運動を展開する。
明治7年(1874年)、同じく生き残り隊員である桃井求造、斉藤駿と連名で墓所建立を政府に嘆願。同じ願いは他の隊士や寛永寺からも出された。政府の許可が下り、小川ら3名の隊士が墓所建設に取りかかることになる。
やがて他の2名が東京を離れたため、この計画は小川一人の手に委ねられることになった。小川は私財を投じて悲願の墓所建設にこぎつける。
墓所は明治8年に完成するも、借金のかたに墓石が没収される憂き目に遭う。小川の窮状をみかねた白山大乗寺住職の援助により、明治17年(1884年)に墓は再建される。小川はその後の余生を墓所の経営に没頭した。
山岡鉄舟の仕官の誘いも断り、墓守として、亡き同志たちの供養に生涯を捧げる。1895年に亡くなると、興郷の遺志は遺族や親族に引き継がれた。現在彰義隊墓所は東京都に移管され、西郷隆盛銅像とともに幕末維新をしのぶ史跡となっている。
彰義隊ゆかりの地を歩く
彰義隊戦死之碑
上野公園の西郷隆盛像の後ろに建つ「彰義隊戦死之碑」。
黒門(跡)
上野戦争の主戦場となった寛永寺黒門。南千住円通寺に移設され、壮絶な戦闘の様子を今に伝える。
彰義隊墓地
彰義隊の墓地は円通寺の敷地内にある。
小塚原刑場
小塚原刑場は、彰義隊リーダー天野八郎の遺体が遺棄された場所。
東本願寺(浅草本願寺)
東本願寺(浅草本願寺)は、彰義隊結成の場所として知られる。
上野戦争碑
上野戦争碑は、徳川家の霊廟を祀った寛永寺敷地内にある。
徳川慶喜公墓所
彰義隊には主君にあたる徳川慶喜の墓。
彰義隊はなぜ戦わねばならなかったか
討幕軍の江戸総攻撃は中止され、大規模な戦闘で江戸が戦火に見舞われる事態は免れた。北関東や北越、東北で戦闘が行われても、100万都市江戸が主戦場にならなかったのは幸運だったが、彰義隊が上野山寛永寺にこもって尊い血を流した歴史は忘れてはならない。
彰義隊は、何のために戦ったのか? 上野戦争はなぜ起きたのか?
討幕軍は平和的に江戸へ進入したのだから、本当なら上野戦争は起きなくてもよかったはず。それが起きてしまったのは、彰義隊の側に、薩長主導の諸藩連合軍と一戦交える動機があったからだろう。
彰義隊の理念に賛同して集まった者は、必ずしも気骨ある武士ばかりではなかった。3,000人にまで膨らんだ組織には、百姓もいれば町人もいて、単に出稼ぎ感覚で加わる者もいた。この機会に名を売りたいもの、一花咲かせたいものもいただろう。だから、いざ上野戦争ははじまると、命が惜しくなって逃亡する者が続出し、最終的には1000人足らずに縮小した。
残って戦った彰義隊士たちは、侍として忠義の花を咲かせたかったと言われる。武士にふさわしい死に場所を求めて戦った、と。後世ではそう評価する者たちがいる。
つまり彼らは勝つのが目的ではなかった。本気で朝廷軍を倒すつもりで戦ったわけではないのである。
それは彼らの戦い方からしてわかる。勝ち戦を目指す意志があるのなら、上野山にこもって戦う戦略ではなく、市中に打って出て江戸市民をも巻き込み、敵を攪乱するようなゲリラ戦や、陣営深く忍び込んで幹部を暗殺するなど、とにかく泥臭く、なりふり構わない戦法を選ぶはずではないか。少数の軍勢で武器も装備も劣る中での徹底抗戦というなら、まともにぶつかっても勝てるわけなく、彼らもそのことはわかっていたはず。
しかしそうはせず、雨あられの砲弾の中を突撃していったのは、正々堂々と戦い美しく散りたいという、武士の本懐を遂げたい思いの表れである。そして彼らは江戸市民を巻き込むことはしなかった。自分たちの生き方を貫くために市民を犠牲にしなかった姿勢は評価されていい。
彰義隊結成の目的だった徳川家の再興はかなわず、結果的に彼らは敗者となった。しかし、ただ負けたのではなく、どんなふうに負けるのか、「哲学」を見せた負け方だったように思う。「美学」と言ってもいいかもしれない。そしてこの「哲学」や「美学」は、現代でもっとも損なわれ、見失われている本質的な価値観でもある。何を守るのか、何のためにそれを実行するのか、単なる勝ち負けや損得を越えた価値観。
哲学だけあって勝つための戦略がないのは困るが、哲学がなく損得勘定の行動原理だけなのも、もたない。おそらく活力は失われ未来はしぼむ。彰義隊から学ぶべきことは、哲学を持つこと。反面教師とすべきことは、哲学だけにすがりつくこと。こんなところではないかと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?