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明治維新で廃業「首斬り処刑人」の声を訊く

AIの登場で消える職業が何かと話題ですが、国の体制と社会の仕組みが大きく変わった明治時代にもたくさんの職業が消えました。

その一つに、「首斬り」があります。

斬首刑に処せられた罪人の首を一刀のもとに斬り落とす仕事です。

現代人からすれば思わず眉をひそめたくなる話ですが、「打首獄門」制度が公然と存在する以上、誰かがこのようなおぞましい血塗れ仕事を引き受けねばなりませんでした。

首斬りを稼業とした「山田浅右衛門」については、『明治百話』ならびに『幕末明治女百話』に、その人物と仕事、人間的な一面がわかるエピソードが収録されています。


明治百話に登場する「最後の首斬り浅右衛門」

明治百話に登場するのは、八代目山田浅右衛門の吉亮(よしふさ。九代目とする説も)。

七代吉利の実子で、彼の代で斬首制度は廃止になったことから、最後の山田浅右衛門としても知られます。

17歳で雲井竜雄を斬る

吉亮がはじめて刑場に立ったのは、何と12歳のとき。

「手前は十二の時から父吉利と刑場に参り」とありますから、はじめはおそらく父の助手的な仕事だったと思われます。

父親は吉亮のこの年齢にして斬首の器量ありと見込んでいたのでしょうか。

吉亮が凄腕だったことはその後の経歴からも見て取れます。

『明治百話』に記述のある、吉亮が斬首を任された著名な罪人を列挙すると、

雲井竜雄(幕末の志士・詩人。内乱罪で明治3年処刑)
島田一郎(大久保利通暗殺の主犯。大勢の仲間も斬首刑)
高橋お伝(強盗殺人で死罪。明治の毒婦として有名)
原田きぬ(三角関係のもつれで情人を殺害。別名「夜嵐おきぬ」)
服部喜平治(弁護士。判事を傷害した罪で死刑)

雲井竜雄を斬ったとき吉亮は17歳でした。

雲井は至って小柄な男で、その大胆さはどこに宿っているのだろうと思われるくらいでした。しかし刃の露と消える刹那も神色自若として少しも動きません。やはり一流の人物は違うものだと心中我ながら敬服しました。


明治百話より

多くの勤王志士らに敬われた傑物・雲井竜雄の、従容として見事な最後をこのように称賛しています。

しかし17歳でこの因果な仕事をやりきるあなたも負けないくらい大胆。

ちなみに、高橋お伝と服部喜平治は手の付けられないほど暴れてさんざんな目にあったそうです。

斬罪人の辞世の句を解するため俳諧を学ぶ

興味深かったのが、浅右衛門一家は代々「俳諧の宗匠」になるための学芸修練も惜しまなかったというエピソード。

「何か言い遺すことはないか」と尋ねられて辞世の句を詠む者が多く、文字が詠めなかったり意味がわからなかったりすると家名にも関わるということで、三代目吉継より俳諧に入門する慣わしになったとのこと。

古来、日本の武士は勇猛さや忠誠心だけでなく、詩歌を理解する風流な心も求められたと言います。

戦国武将などは辞世の句を甲冑の下にしのばせて出陣したなんて話も伝わります。衣川の戦いにおいて、源義家が退却する安倍貞任に向かって「衣のたてはほころびにけり」と大声で詠みかければ、貞任が咄嗟に「年を経し糸のみだれの見苦しさに」と上の句をつけて返した逸話からも、風流を愛してやまない武士のDNAを感じます。

三代目以降、浅右衛門を襲名した当主は俳諧に入門して俳号をもち、辞世の句を詠んだそうです。

手前もまた「松風軒誠雅(しょうふうけんせいが)」というヘボ宗匠なんです。こんな風で風流を心がけましてから、罪人の詠みます詩歌発句もとっさにくみいとられ恥をかくような事もなくなりました。これは皆三代の発心のおかげで、吾々子孫の仕合せでした。

明治百話より

女百話に登場する「娘が見た父・首斬り浅右衛門」

女百話に登場するのは、娘から見た「山田浅右衛門」。この人物は七代目吉利で、先に登場した八代目吉亮の実父でもあります。

彼も多くの名士の処刑を担当したらしく、なかには吉田松陰や頼三樹三郎といった大物志士も名を連ねています。維新後は「刀剣の鑑定家」に転身。勝海舟や黒田清隆などもお世話になったと言いますから、目利きの確かさはよほど世間で評判だったのでしょう。

引退後は雀と鼠にまで及んだ慈悲心

娘さんの話によると、七代目吉利の晩年は方々のお寺に寄進し、お寺参りや供養も欠かさない「熱心な仏教信者」になったとのことです。

文字通り仏のような慈悲深さをもって他人や生き物に接したとも言います。

道端に座り込む乞食をみつけては憐れに思い、家に連れてきてごはんをごちそうしたり、使い古しの着物を差し上げたりするなど、家人も困るほどの手厚いもてなしぶりだったとか。

七代目は人だけでなく、心をもたぬ生き物にも申し分ないほど慈悲の心を捧げました。毎朝、縁の下の鼠と軒先の雀に餌を与えてかわいがり、餌が切れると自身も食事を抜いて我慢したそう。「雀のご飯が来るまで、私も待ちましょう」と。

キリスト教が多くの日本人の心を掴んだこの時代、一視同仁の素晴らしさを説く牧師が三顧の礼をもって七代目を迎えてもいいくらいです。

首斬りは大岡越前の時代に廃止が検討された?

『女百話』には、娘さんが父吉利から「首斬制度は大岡越前守のご意見により、廃止の議論が持ち上がったことがある」と聞かされた話が載っています。

もしこれが史実なら、江戸法制史の研究に貴重な証言となるでしょうね。

さりながら先祖に遡れば、全く徳川家康公の御佩刀を試す役柄、刑人の屍で試したものを、いっそ生身をも引き受け、斬ってみるがよいとの仰せから、代々伝来したのであるから、当時の浅右衛門もやめる訳にはいかなかったものと心得る

幕末明治女百話より

当時の時代情勢では、廃止にできなかった。が、自分の代で斬首刑廃止となり、こうして刀剣の目利きをして生きていける。これはとても恵まれているわけだから、「仏性を起こし、慈悲善根によって、御先祖の冥福を祈る

七代目があれほど命を大切にしたのは、時代に恵まれたことへの感謝と同時に、公儀のために重い職務を背負い続けたご先祖を供養する意味もあったようです。

七代目浅右衛門吉利は明治19年没。享年72。

本記事を書いて(終わりに)

代々の浅右衛門が風流を解するため俳諧をたしなんだことや、七代目吉利が慈悲の精神を発揮して乞食や生き物にまで情愛を注いだところなど、その根底に流れるのは「武士道」だと感じました。

美しさや名誉を重んじる心、弱きものを助ける仁愛の精神などは、武士道が教えるところです。

浅右衛門の家業は世襲では務まりません。吉亮のように実子が継承した例もあったようですが、吉利のように養子が継ぐ、あるいは弟子に跡目を譲るといった例が多かったといいます。

斬首の仕事に求められるものは、技量もさることながら、頭がおかしくなるほど人を斬っても怯まない強靱で豪胆な精神力。

だからといって殺生に鈍感になるのではなく、むしろ死に往く者をおもんぱかり憐れむ心を保つ。

その心がけが、鬼畜に墜ちるのを食い止める。

罪人とはいえ、殺生を与るのは名誉なことではありません。偏見も多かったでしょう。だからこそいっそう美しさに磨きをかける努力が必要だったし、武士道を大切にする思いも強かったのではないでしょうか。

斬首刑は明治14年廃止。これと同時に山田浅右衛門の家業も廃絶。

斬首刑が消えても絞首刑という形で罪人を処罰する死刑制度は残り続けています。

今だったら、ボタンを押して死刑囚を絞首する役が、現代の山田浅右衛門になるでしょうか。

手を下す方法やその難易度、精神的な重さなどは斬首刑と比較にならないでしょうけど、死刑執行のボタンを押す看守の人たちも『明治百話』『女百話』に登場する山田浅右衛門のような心境になったりするものなのかと、少し気になりました。

このように普段はあまり気にしない現代の職業でも、歴史的な視点でもってみると色合いが変わり、興味が湧くから不思議です。これもまた一つの歴史の楽しみ方でもあります。



















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