豊臣秀吉が明智光秀を討ち天王山を制する話
いまはむかし、木下藤吉郎という百姓生まれの男がいた。身分の低い家柄だったが、若くして尾張大名織田家の足軽となる。織田家には有能な家臣や兵卒が多かったが、なかでも藤吉郎の働きぶりは目覚ましく、たびたびの活躍で信長にも気に入られる。用兵もたくみで、戦に連戦連勝して信長の領地拡大に貢献。この男の出世は約束されたように順当で、はやかった。近江の浅井が滅びる頃には官位を授かり、羽柴筑前守秀吉と名乗る。農民の息子だった男は、織田家の有力家老と肩を並べるまでの存在となった。
主君の信長が明智光秀に討たれるという変事が起きたのは、中国の覇者・毛利氏を攻め立てているときだった。要塞堅固と名高い備中高松城を、もう少しで攻め落とすかというところで、凶報に接したのである。
狡猾な秀吉は、水攻めで城兵を追い詰める力技に加え、米の大量買い取りで白米の高騰を誘い、食糧を枯渇させる経済戦争を仕掛けていた。これで毛利勢は急速に疲弊し、あと一息で降伏というところまできていたのだ。そこへ毛利側に信長が討たれた事実が知れわたれば、有利な条件で講和できないことも予想された。
さらには、一刻もはやく備中を引き上げて光秀を討たねばならない。おそらく光秀の天下はすぐに終わる。謀反人の野望を打ち砕くのは自分か、柴田勝家であろう。勝家に先を越されぬためにやることは、急ぎ兵を整え光秀を討つことである。鋭敏に頭脳を働かせる秀吉の眼光は、有為転変してやまない天下の行く末に向けられた。
陣中には当然、毛利の間者が忍び込んでいる。講和を急ぎつつ、焦りを悟られないよう何食わぬ顔を貫き通す必要があった。一計を案じた秀吉は、陽気な調子で陣中の兵たちをねぎらい、余裕しゃくしゃくとばかりにふるまった。
信長の死を悟られず、毛利との講和にこぎつけた秀吉は、いそぎ東へ向けて進軍を開始する。本能寺の急変からわずか2日後、6月4日のことだった。
秀吉一行は4日の夜に高松城を出発し、全速力で中国道を駆け抜け、8日に本拠地の姫路城に着いた。そこで一日休養をもうけ、兵たちに金銀穀物あるだけをふるまった。いわば全財産を投げうち、この一戦に賭けたのである。秀吉は命まで懸けていた。
一方の光秀は、柴田勝家の挙兵に備え、近江に軍を派遣。自らは秀吉を迎え撃つべく京へと舞い戻り、淀城と勝龍寺城の整備に取りかかる。縁故の武将や近親の大名に声をかけて協力を求めるも、ことごとく断られた。
6月13日の夕方、天王山のふもと山崎の地で両軍は激突した。
勝負はあっけなかった。4万6千の秀吉軍は、200㎞の行程を踏破した勢いそのまま賊軍を蹴散らし、終始圧倒した。謀反の余勢を駆って参じた光秀軍だったが、倍以上ある勢力を前に兵たちは意気阻喪となり、雨に打たれながら散り散りに遁走した。
光秀はわずかな手勢とともに戦場を離れ、闇夜に乗じて落ちていった。最後は小栗栖という場所で落ち武者狩りの急襲に遭い、波乱の生涯を終える。
秀吉が警戒した柴田勝家の軍は、光秀討伐に間に合わなかった。凶事を知ったのは魚津城攻めのときで、備中に飛ばされていた秀吉よりはるかに有利な場所にいた。が、逡巡したのか、兵がそろわなかったのか、秀吉のごとく迅速な動きはとうとうなかった。こうして信長の筆頭家老だった男は、歴史の奔流からはじき出された。
光秀が本陣を敷いたのは、御坊塚にある古墳群である。そこは本拠地・勝龍寺城からほど近い。城を背にする陣地は、兵力差から生じる不安を埋めようとしたかのように見える。
天王山と淀川にはさまれた大山崎は、兵の展開が難しい狭隘の地であり、ここに兵力を集中して秀吉の大軍を引きずり込む戦術も選べたはずであった。まさに背水の陣である。その戦法をとらなかったのは、大山崎が市街地であり、戦火になることを禁止するお触れを自ら出していたから、ともいわれる。天下分け目の決戦を前に、町人と取り交わした誓い言を守ったということだろうか。謹厳で堅物な光秀らしいといえばらしい。
勝家は機を見て敏な動きができず、若輩の秀吉にお株を奪われた。光秀は大事を捨てて小事にこだわり、せっかくつかんだ天下を取りこぼした。これらの類は、いつの世にあっても天運を味方にできず哀れな末路をたどるのが通相場である。圧倒的に不利な形成をはねのけ、果敢な決断と行動でもって天王山を制した秀吉は、天下統一の夢を信長にかわって果たすことになる。