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【短編小説】落ちて流れて(明治時代:スリ師に落ちぶれた元武士の話)

与五郎の細い目は、周囲の客と同様、舞台上の洋装に身を固めた男の手先に向いている。

ただひとつ違うのは、客たちがその手先から繰り出される華麗な手妻に感嘆の声をもらしているのに対し、与五郎の表情はいかにも無感動で、声ひとつ上げず、腕を組んだまま石のように動かないことだった。

与五郎の左横には、丹後縮緬の小袖に身を包んだ若い娘が座っている。着物には桔梗の花をかたどった小竹藩の家紋が入っている。その身なりから察するに、娘は小竹藩の武家の出で、それなりに裕福な暮らしをしているらしい。細く白い手と膝の間に挟まれた金口のがま巾着も、生活の潤いを表すかのようだ。

奇術師は淡々と手妻を繰り広げ、そのたびに客席からため息がもれる。一瞬、大きなどよめきになった。娘も感嘆の声をあげ、がま巾着に重なっていた手を口元に移す。目は真剣に舞台上に注がれている。

膝の上にあったがま巾着が、消えた。

与五郎は何か思い出したような顔になり、そくっと立ち上がった。そして、娘に背をむけるかたちで通路側へ去って行く。

与五郎の動きは、場内の張り詰めた空気に完全に埋もれていた。

「バカヤロウ! 人の話聞いてたのか!」
暗い並木の歩道で、甲高い声が響く。声の主はさっと周囲を見渡し、先ほどとは打って変わって声をひそめて言う、「金縁眼鏡のカモがいるというのに、小娘の巾着盗むやつがあるか」

与五郎は何も言わず、ただむくれた顔をしている。悪びれる様子はない。むしろ、正しいことをしたといわんばかりの面構えにも見える。

伝助の指示は「カモは、右隣に座る洋装の肥えた老紳士」だった。与五郎は充分わかっていた。わかっていながら、指示を無視し、左隣の娘の持ち物を狙ったのだった。

与五郎と伝助の周りには、ちらほらと通行人が増え始めた。テント小屋の舞台が幕を閉じ、家路に向かう観客たちのようである。

「俺にあごで使われるのが嫌で、わざと指示に背いただろう? わかってんだぞ」
正面を向いた与五郎に、伝助が目を怒らせて言葉を尖り散らす。「町人上がりの卑しい分際で、何偉そうにって思ってんだろ? 顔にそう書いてあるぞ。てめえいいかげんガラクタみたいな意地捨てろ。そんなのが何になる? むかしの偉い身分が金になるのか? しけた野郎だ」
伝助はペッと唾を吐き、与五郎に背を向けて歩き出した。
「お前の言うことは半分あたって、半分外れているよ」
遠くなる伝助の背中に向かって、与五郎がつぶやく。口元はゆがみ、自嘲した顔が何かを語ろうとしている。
与五郎の体は力なく人の流れに混じっていく。
「指示に従わなかったのは……お前が嫌いだからじゃない、確かにお前は嫌いだが、小竹藩の家紋をみて、我慢ならなかったんだよ……」
感情を抑えられないといった具合に、与五郎の口から言い訳めいた言葉があふれ出てくる。
上野小竹藩は三万石程度の小藩で、幕府領であった。戊辰戦争では徳川方として戦うも、土壇場で薩長に寝返える裏切り行為に走った。徳川方について上野戦争、戊辰戦争を戦った与五郎としては許しがたい行為であり、その感情的なしこりは御一新後も消えずくすぶっていた。
「むかしの身分が金にならない、金にならない荷物を捨てきれないだと……確かにお前さんの言うとおりだ」
力なく歩く与五郎の姿は、灯りのとぼしい暗い路地のほうへ消えていった。

与五郎と伝助は、今日もスリのカモを狙って市中を歩いている。
二人ともいかにも流行りの服を身にまとい、伝助は赤、与五郎は茶色がかったフランネルのシャツで、中折れ帽をかぶり、これも最近乙な趣味を楽しむ者たちの間で定番のズボンを履いている。とても人様の物に手をつけるスリ師には見えない風体で、粋な感じすら与える。
「……よし、今日はタチでいこう」
「タチ……?」
「眠てえ野郎だな、紙芝居観に来たドウロク(スリの被害者)を狙うって教えただろう? これくらい一回聞いて覚えやがれ」
与五郎の足が止まった。目が据わっている。
右手がさっと引く。腰のほうでつくった握りこぶしがぷるぷると震える。
腰には何もない。与五郎の顔がはっとなる。
(……おい、しっかりしろ、どうかしてるぞ)
与五郎は刀もないのに無意識に腰へ手を伸ばした己を恥じ入り、うつむいた。
「……おい」
伝助が声をかける。先ほどまで並んで歩いていた与五郎が、急に足を止めて佇み、冷たい眼差しを向けている。
「……へ、俺を切りたくてしょうがねえって顔してるな」
「お前さん、ちょっと図に乗りすぎじゃねえのか? 俺はお前の下僕じゃない、小僧でもない。相棒ということでお互い協力してやっていくって話だったじゃないか。それをなんだ、俺だってな……」
「こう見えて元はお侍様だぞ、と言いたいのか?」
与五郎の顔がさっと赤くなった。
「その皮肉めいたいいぶりよさねえか。俺がいつ昔の身分ひけらかした?」
「お前こそ、俺を見下してるから、いちいちそうかっかするんだろ? なあ、年下の分際で、しかも潰れた織物問屋の使いっ走り小僧が何言ってんだって」
「お前こそ、自分の生い立ちをひがんでるから、そんなしみったれた言い草になるんだろう」
与五郎はくるりと背を向けた。
「おい、どこへ行く?」
「さわりっぱなからこんな調子じゃ疫病神にたたられる。今日は遠慮しとこう。出直してくる」
「田舎帰って引っ込んでてもいいんだぜ。よちよち歩きのお前さんと違ってこっちは腕があるからな、一人でやっていけるんだよ」
与五郎は歩を速めた。背中に飛んでくる声の矢から逃げるように。

伝助と別れ独りになった与五郎は、行く当てもなく露天商が並ぶ上野の市中を歩く。いろんな人種やいろんな界わいで生きる輩と行き違う。元侍の威厳を歩き方で示すザンバラ髪もいれば、和服を装い楚々とあるく婦人もいる。汚いなりをした物売りはそこかしこに座り込み、堂々と闊歩する異人などは日本人より風景にはまり込んでいる。

十年前、まだ徳川幕府が存在した頃とは、まるで違う風景が流れていた。あの頃は、まだきまりきった型というものがあった。落ち着ける規定というものがあった。そこに座っていれば、立っていれば、何事もなく黙って時が流れ、生きる営みが完成する。厳粛の中にも穏やな空気に包まれた世界だ。それが一気にどこかへ消し飛んでしまい、型も規定もない無造作なつくりになってしまった。どこまでも乱脈で不穏当にしか映らない。

決まり切った型のなかで静かに生きていた者からすれば、自分の心までがバラバラにするようなものだった。

与五郎は上野の乗合馬車の駅に着くと、品川行きの馬車に乗った。馬一頭、6人乗りの箱形の馬車には、五十がらみの男と和服姿の老人、幼子を連れた留め袖姿の女性が乗り合わせている。

与五郎の真向かいに座る老人が広げる新聞に与五郎の目がいった。
ちょうど一面の記事の見出しが目に留まる。
何気なく向けていたその目が、かっと大きく開いた。
与五郎は立ち上がり、老人から新聞を奪い取る。
老人の激しい抗議も、与五郎の耳には入らない。その目は食い入るように紙面の文章にだけ注がれた。
「小竹藩の家老の娘、自害を図る。何でも、異人手妻の見物中に巾着を盗まれ、それを恥じ入るあまり喉に匕首を突き刺す、幸い一命は取り留めるも……」
記事を読み上げる与五郎の眉間はどんどん険しくなっていった。

娘は、大事なものを盗まれた己の至らなさを恥じ、その強い責任感から自らの命をもって償おうとした。本人から直接聞いたわけではない。確かめたわけでもない。が、少なくとも新聞報道はそう伝えている。おそらく事実であろう。武家の教育を受けた娘なら、そのような動機で命を絶とうとするのは何ら珍しくない。

与五郎は動揺する自分を隠しきれなかった。娘をそこまで追い詰めたのは他でもない、己なのである。あの日、ショウに夢中になる娘の目を盗んで巾着に手をつけたのは自分であり、それがなければ娘は早まったことなどせずに済んだのだ。そう考えると与五郎は息が苦しくなった。

「もう足を洗いたくなったかい?」
ある日伝助にそう言われた与五郎はぎくりとなった。娘の事件以来、動揺する心を抑えつけながら、惰性でスリ稼業を続けていた。
もとい好き好んではじめたわけではない。身すぎ世すぎのために仕方なくついただけのこと。やめられるものなら、とっくにやめている。やめられないのは、それに取って代わる食うための手段を探そうと思うほど、生きることに夢中になれないからだ。
「例の娘、死に損なったらしいじゃないか、だまっていたが、俺は知ってるんだぜ」
伝助のぞんざいな言い方に、与五郎は顔を曇らせた。その言葉は過敏になっていた心を容赦なくなぶるようで、不快にならずにいられない。与五郎の伝助を見る目つきがまた蛇でも見るようなそれになった。
「そんな怖い顔するなよ。俺はお前さんを励ますために言うんだから」
「……励ます?」
「そうだ、お前さんは悪くない、悪いのは娘のほうだ、間違いなく娘が悪い」
伝助は強調した。与五郎の目つきは怪訝そうに伝助を捉える。
「だってそうだろう? てめえでてめえの命投げ出す奴が悪くないって法はねえ。それにだ、今は明治だぜ? 気高い武士道精神とやらで飯が食える世の中じゃねえんだ。おおかた娘は骨の髄まで古い考えが染みこんでいたんだろう、恥をかくくらいなら死を選ぶ、そう教えられたか知らねえが、あの頃合いで自害を図ったんだからおそらくそうだろう、娘は古い考えを捨てきれない自分で自分の命を奪おうとした、ただそれだけだ」
伝助の勢いある弁舌に、与五郎は反論しなかった。ただ黙って聞いていた。言い返す言葉が何も見つからなかった。
(こいつ、俺に説教してるつもりだな)
与五郎はそう感じ取っていた。
「スリをやめても、古い考えに縛られている自分をやめなければ、あの娘と同じように恥をさらすことになるぜ」
あ、と口が開いた瞬間、伝助の歯が飛んだ。体はそのまま後ろに吹っ飛んだ。
右拳を握りしめ仁王立ちする与五郎の息は荒かった。
「かー、これが武士の拳か」
伝助は口元の血を拭い、裾についた砂埃を払いながら立ち上がる。
「だがな、親父のげんこつのほうがよっぽど痛かったぜ。まあ本気じゃないよな? 武士の拳がこの程度じゃ、そりゃご公儀も守れないってもんだ」
与五郎の顔がさっと赤くなり、伝助の襟を掴む。
「ま、待ってくれ、殴るんだったら、今日の稼ぎの後にしてくれ、ろくに稼いでもないのに片輪にされちゃかなわねえ」
伝助はそう訴えながら笑っていた。さきほど与五郎から受けた殴打で前歯は欠けている。与五郎は何だか憐れに思い、黙って右腕を下ろした。
「さ、稼ぐぞ稼ぐぞ」
殴られても伝助はいつもの伝助であった。その身軽な調子に与五郎の怒りもすっかり冷え込んでしまった。

人の行き交う通りを与五郎と伝助が並んで歩く。両側には劇場やら貿易商の会社やら馬飼の会社やらが建ち並び、そこそこの賑わいを感じさせる。
「喧嘩ふっかける役、どっちがやる? 体格よく腕っぷしも強いお前さんのほうが適役だと思うが、どうだい?」
「いや、歯のないお前さんのほうが擦れていていかにもチンピラにピッタリだ、俺は仲裁役にまわる」
「うまく抜き取るんだぜ」
「俺の心配はすんな。それより自分の顔がそれ以上壊れないようにしろ」
「本気で喧嘩するわけじゃねえんだ。すぐに仲裁に入れよ……お前、まさか……何笑ってんだ、さっきの腹いせに、俺を見捨てて逃げるんじゃねえだろうな」
「お前も意外と小心だな。俺がいなくても一人でやっていけるんじゃなかったのか」
「てめえ、それとこれは別の話だ、ちゃんと仲裁に入れよ」
「しつこいな、子どもの悪戯して喜ぶほど赤くはない、おい、向こうから歩いてくるステッキの男なんかどうだ」
「目のつけどころ悪くねえ、よし、あいつで行こう」
与五郎と並んで歩いていた伝助は前へ出て、肩を揺らしながら歩いて行く。前方から、西洋服に身を包んだハット帽の初老の男が、ステッキを突きながら近づいてくる。
伝助と男の肩がぶつかった。
「おいいてえじゃねえか、どこ目つけてんだ」
伝助に絡まれた男は目を怒らし、強く低い声で「それはこっちの言葉だ。ぶつかってきたのはお前さんのほうだぞ」と抗議した。
「は、一丁前こんなもん振り回してるからろくに前も歩けねえんだよ」
伝助は言うなり伝助は男のステッキを蹴飛ばした。
男の顔は真っ赤になった。「こいつ」と言うなり伝助の襟首を掴む。
「待った待った、落ち着いて」
与五郎がさっと現れて二人の間に割って入る。その手は男の胸に伸び、抱え込むようにして伝助から身柄を引き離す。
「さっきから見ていたが、これは先にぶつかったお前さんのほうが悪い、謝ったらどうだ」
「なんだてめえ、でかい顔してしゃしゃり出て、引っ込んでろ」
伝助は思い切り与五郎の胸を突き飛ばした。与五郎の体が路上に倒れる。
「やってくれたな、俺が相手してやる! てめえこっち来やがれ!」
与五郎は立ち上がるなり伝助に啖呵を切った。道行く人は何事かと二人のやり取りに視線を送る。
ステッキの男はもはやうんざり顔で、離れたそうにまごまごしているが、当事者だから動くに動けなくない。
「天下の往来で派手に立ち回りでもしたらみんなに迷惑かかっていけねえ。近くに広い場所あるからついてこい。旦那、こいつは俺が懲らしめてやるが、文句はないね」
与五郎の念押しに、西洋服の男は「ああ、好きにしていいよ」と戸惑いながら答える。
「上等だ、後悔すんなよ」
伝助は肩を鳴らし、先を歩き出した与五郎の背中を追う。二人の姿は衆目からさっそうと消えた。

堤防の斜面を覆う野草は風になびいている。風には油くさい匂いが含まれているのは、川越しの向こう側の拓地で鉄鋼工場が建っているからだろう。今は工場があちらこちら雨後の竹の子のように建つご時世であった。
そんな油と野の匂いが混じる草地に与五郎と伝助は腰を下ろし、先ほど紳士から盗んだ財布の中身をあらためていた。
「紙幣が七枚に、天文銭が十銭……まあまあだな。俺が4円お前が3円、1円は殴られた慰謝料だ、文句言わせねえぞ」
与五郎は黙って紙幣だけ受け取った。そしてぼそっと「お前さんってなんか不思議な奴だな」とつぶやく。
「不思議って、何がだよ」
「ハエみたいにこだわらないな」
「ハエ? いったいどういう意味だ」
「ハエは何でも飛びつく。生ゴミだろうが人の糞だろうが、選ばない。自由だ、何にも囚われない」
「俺がいつゴミ漁りして人の糞を喰らったってんだ」
「たとえで言ってんだ」
「胸くそ悪いたとえすんじゃねえ。まったくあんたは口が下手だな。武士だった時代はそれでよかっただろうが、もうすこし口を回すほうに力入れたほうがいいぜ」
「うるせえ、そんなことは百も承知だ、俺が言いたいのはな、要するに、こだわらない奴は強いってことだ。お前さんみたいに。下手に牙のある狂犬より、つかみどころのないハエのような性質がたくましく生きるだろうし、世渡りも上手いて話よ」
「だからその下手なたとえやめろって。もっと素直に言えねえか、俺がうらやましいって、俺みたいになりたいって」
「お前……」
伝助はニヤニヤして与五郎を見ている。与五郎は顔をそむけ、ため息交じり空を見上げた。
「なんだい、図星つかれて言葉も出ないか」
「まあ単にお前さんは、頭が軽いだけか。何かについて深く考えることもないだけだろ」
与五郎が愚痴っぽいつぶやきに、伝助は首を振った。「あんた何にもわかっちゃいないよ。俺だって何も、楽しんでスリなんかやってるわけじゃないぜ」
与五郎は意外に思い、「何だお前、スリ稼業楽しくないのか」と尋ねる。
「楽しいとか楽しくないとかそんなんじゃねえ、楽ってのはあるがな。まあ、あんたの言う通り、考えないようにしてるだけだよ」
「楽か……確かに楽なのはいい。俺も、むかしのほうが楽だったように思う。ただし……」
「……ただし?」
「楽しい、なんて気の利いたもんじゃなく、ただ楽というだけだった、今思えばそんなもんかもしれない」
決まった枠にはまるだけの生き方は、確かに楽だ。だが、自由や生きがいというものを考えると、昔にそれはなく、むしろ今の時代にこそ転がっているような気もする。
与五郎がひとりそんな思案に暮れていると、伝助が「お侍っていうのは馬乗れるんだろう?」と聞いてきた。
「乗れはするが、俺は徒組だったし、馬を持てるような身分ではなかった」
与五郎がそう答えると、伝助は「馬に乗る心得っていう話聞いたことある」と語り出した。
「聞きかじった話だが、馬を上手に乗りこなすのに、西洋と日本の馬の違いとか、言い訳しちゃダメだってよ。最近は西洋から馬が入ってきて、その違いを言い訳にする奴らが多いそうだ。大事なのは、馬本体を見ること。馬にも性格や、体調、気分ってのがある。これに西洋も日本も関係ねえ。何が言いたいのかって、人生もこれと同じだってことだ」
「人生だと……?」
「そうだ、自分という馬を乗りこなすのが人生ってもんだと俺は思うんだ」
「ほう……」
「どう生きるか、何をして食っていくかなんて、自分を飼い慣らせるかどうか、てだけの話さ。西洋がどうとか、時代がどうとかって言ったってはじまらんのさ」
「……なるほどな。お前さんが馬に詳しいとは知らなかった。そんな話いったいどこで仕入れたんだ?」
「なに、最近できた競馬場ってとこで働きたいと考えたことがあって、ちょくちょく出入りしてたのさ、そのとき馬飼いの人が俺にそんな話を聞かせてくれて」
「なんだ、受け売りか」
「バカにすんな、受け売りだろうが抜け売りだろうが自分のものにできればそれでいいじゃないか」
「で、競馬場で働くって話は?」
「にぶい奴だな、それだものにならなかったから今あんたとこうして組んでるのじゃないか」
「そうか、今はスリ稼業をやる自分を乗りこなしている最中ってわけか」
「お、飲み込みいいじゃないか、鈍い馬も鞭を打てばさすがに目が覚めるらしいな」
与五郎は笑って受け流した。馬に乗りこなす自信はあっても自分を乗りこなせるものだろうかと、密かに考えるのだった。

与五郎と伝助はその日、浅草にあるテント小屋に来ていた。ここでカモを探すのは、与五郎が小竹藩家老の娘のがま巾着を盗んだとき以来のことだった。
今日も奇術師が繰り出す不可思議な手技に多くの観客が目を奪われ、心酔している。この場に二人のスリ師が紛れ込んでいるとは、まさか誰も思わない。
ショウの舞台に立つ男の服装は派手な印象を前面に押し出し、さらに照明の光を受けて輝く姿を誇示しているように見える。腰に刀を差していたあの時代、この男は何をしていたのだろうか、と、与五郎はカモの隣に陣取りながら思った。
おおかた町人か、芸の世界に身を投じていた者だろう。まさか士族ではあるまい、武士ともあろう者が、華美にうつつを抜かし、嬌声を浴びてだらしなく鼻を伸ばす仕事になど、就くはずがないし就いてはならない、と考えるのは、伝助流に言えばきっと、自分を上手く乗りこなせない人間の醜い方便になるのだろう。伝助の言葉を使って己をたしなめる自分を、与五郎はおかしく思った。
与五郎と伝助は、事前の取り決め通り、幕が下りる十分前に小屋の外に出て、そこから少し離れたところにある、暗がりだけの目立たない街路樹の下で落ち合った。
与五郎は巾着袋、伝助は紙入れと煙草入れと、それぞれ抜き取ったものを出し合い、中身を改める。
「もしもし、そこの御仁」
背後から声がしたと同時に、二人の体は矢が飛ぶように駆けだしていた。
体が消えて紙入れと煙草入れ、巾着袋がその場に残った。
「誤解しないでくれ、待って、大丈夫だから、話がしたいんだ」
男の声は闇夜に響き渡るだけで、二人の背中はどんどん離れていく。
「俺も仲間に入れてほしいって相談だ!」
はじめて伝助が反応し、振り向く。それを見て与五郎は歩を緩めた。
「あいつは俺が抜き取ったドウロクだ」
伝助はいったん逃げるのをやめ、近づいてくる男の顔の観察にかかる。
男は、表情に笑みをたたえ、手を叩きながら近づいてきた。
「仲間になろうなんて、どんな了見だい」
伝助は身をかがめ、相手の顔を覗き込むような姿勢で、うかがった。
「見事な手さばきでした、感動しましたよ」
男は屈託なく笑っている。伝助に手を差し伸べ、握手を求めた。
伝助はしかめながら与五郎のほうに顔を向ける。与五郎は首をかしげることしかできない。
「あの人たちとは商売仲間です」
男はそう言ってテント小屋のほうを指した。
「奇術やってる人かい?」
伝助が尋ねる。
「ご名答。声をかけたのは他でもない、あなたの手技に惚れ込んだのですよ、どうです? 私に弟子入りしませんか? あなたなら、一流の奇術師になれると断言いたします」
与五郎も伝助も、言葉を失い唖然となっている。
奇術師の男は、伝助のスリの手さばきに手妻の才があると見込み、一緒にやらないかと持ちかけているのだ。
「仲間とはそっちのほうかい」
伝助はあきれた顔で言った。なかば安堵の色もにじむ。
「手先の器用さは生まれ持ったもので、努力だけで築き上げるものじゃない。あなたにはその持って生まれた天分がある、手さばきをみてそう感じました」
「待て、ということは、お前さん、抜き取られるの承知で黙って見てたってわけか」
「そうなりますね」
「誉められている場合じゃねえ、そんなんじゃスリ師失格じゃないか」
「そうです、あなたはスリ師には向いていない。いずれ捕まるでしょうね」
奇術師の男は言い切った。伝助は口を小さく開けて微笑をこしらえる。それがせいいっぱいの抵抗のようにも見えた。
与五郎も、すっかり相手の呼吸に圧され、ただ傍観者になるしかない。
奇術師の男は一歩前に進み出て、言葉をつなぐ。
「でもご心配なく。スリ師には向いていなくても奇術師の方面で化ける可能性はおおいにあります。スリ師と違い、魅せるのが商売。隠す方面に向いていなくとも問題ない、それどころか、かえって都合がよろしい」
その口調は不思議なくらい自信に満ちていた。対して伝助のほうは鼻っ柱を折られたこともあり、すくんで見えた。
「この業界は成長しますよ。一人前になれば月給二百円も夢ではない」
「二百円……」
思わず漏れた伝助の声はうわずっていた。
「か細い収入のためにいつお縄になるかわからない生活を続けるか、大金を安定して稼げるうえに、衆目の的になる生活をとるか。三日あたえます。その気になったら、三日後のこの時間にテント小屋の前に来てください。お待ちしていますよ」
奇術師の男は二人に一礼した後、くるりと背中を向けて去って行った。
離れていく奇術師の背中を目で追う伝助の顔つきは憐れなほど弱々しく見えた。
与五郎は伝助の隣で、その心に動きがないか確かめる思惑で、彼の横顔を見つめていた。

数週間の月日が流れた。伝助と与五郎は相変わらず他人様の懐中を失敬する日々を送っている。例の奇術師と約束した「三日」の期限はとうに過ぎていた。誘いを受けた伝助にスリから足を洗う様子は感じ取れない。与五郎は意外に思った。伝助はあのとき心を動かされたのではなかったか。それが、次の日になると昨日までとまったく同じ顔つきに戻っていた。そして昨日までと同じ場所に居座り続けている。
やはり、一度染まった環境は居心地がよいのだろう。そこから抜け出すのは容易ではない。伝助もまた自分と同じように、見えない蔦に心を絡みつかれている。ねばこい餅に足をとられもがいている。人間はみんなそうなるとの気づきというか確認を得て、与五郎は自分が許されたような気持ちになっていた。

「いきなりだが、今日でスリをやめることにした。お前さんともおさらばだ」

いつものように、その日の取り分をふたりで分けている最中だった。伝助の不意打ちのように放たれた言葉に、与五郎の目は丸くなった。
伝助はすずしい顔で紙幣と小銭を数えている。その顔が与五郎のほうに向けられたとき、白い歯がのぞいた。こんなかわいげのある顔ができる男かと与五郎は思った。そしてすぐ、何て憎たらしい顔つきだとも思った。

伝助は、一週間前から密かに奇術師の小屋に通っていた。与五郎には秘密にしていた。そして昨日、本格的に弟子入りすることを例の奇術師に伝えた。

伝助はただそれだけ語ると、分け前を数える作業に戻った。
与五郎はただ黙って伝助の話を聞くだけで、言葉は何も返さなかった。

まったく調子のいい奴だ。花から花へ飛び移る蝶のような身のこなし。奇術師というより軽業師のほうが向いているのではないか。与五郎はあきれながら、伝助のとらわれないはしっこさを思い知った。

与五郎は、独りになった。さて、これからどうするか。一人でスリ稼業を続ける道もなくはないが、すぐに打ち消した。たまたま知り合った伝助に誘われはじめた仕事、伝助ほどの腕もない。もとより、こんな商売などに未練もなく、思い入れもなく、将来など期待できるはずもない。時機さえ掴めば足を洗いたいと願っていた。その機会が訪れたわけで、これはよい転機のはずだった。

人気のない暗い道を歩いていた与五郎は立ち止まった。しばらく物思いにふけりたいと思った。自分の胸が、何か冷たい。それは冷たい風が通り過ぎた痕のようだった。

なぜ、伝助なんだ? 与五郎は素朴に不満を持った。

転向を願っていたのは自分なのに、その好機は、スリ稼業を受け入れていた伝助に回ってきた。何とも皮肉な話じゃないか。まるで虚仮みたいだ。与五郎ほとんど幼児みたいにすねた。

「これだ、こういうところがお前の悪いところだぞ、与五郎」

与五郎は空に向かい、大きな声を出して言った。
今の俺を見て、伝助なら何て言うだろう、とふと考えてみた。

何をしたっていいんだ。お侍さんだった頃はそれがなかっただろう? やることがひとつしかない時代より、やっていいことが無限に広がっている時代のほうが、わくわくするじゃないか。

与五郎は慌てて打ち消した。自分でも吐き気がするくらい、なんて青臭い御託を並べやがる、とおぞましくなった。

枠にはまっていれば安泰だった時代と、枠にはまるもはみ出すも自分で決められる時代。

どっちがいいかだって? どっちが生きやすいかだって? そんなことを比べる時点で、自分を乗りこなせていないぞ。

己で己をたしなめるのはまたしても伝助の言葉だった。

「いい腰物あったら恵んでくだされ。高値で買い取るよ」

与五郎が振り向くと、禿げ頭の親父が愛想笑いをこちらに向けて立っていた。看板には「質屋」とある。なるほど店頭には骨董品と化した太刀やら脇差しやらが並んでいた。
「あいにく、もう手放してるよ」
与五郎は答えた。
「名残惜しかったら、ここにあるもの買い取るってのは?」
「名残惜しいように見えるかい?」
「へへ、そういう旦那ちらほらいるんですよ、質に流しておいて、やっぱり手放したくないといって買い戻すお侍さん」
与五郎は思わず苦笑した。
立ち止まり、しばらく店頭の刀を眺める。
ただの道具ではない。十年前までは、ほとんど自分の体の一部だったといっていいものだ。
(この店だけじゃねえ、おそらく日本の端から端まで……本来の持ち主の手から離れた刀が行き場を失い、本来持つべきでない人の手に渡って……)
与五郎ははっとなり、そこまで巡らした思いを打ち消した。
体の一部だったものがただの道具に成り代わるまで、まだ時間がかかりそうだ。
時間がかかってもいいじゃないか。
「おい親父、ここには西洋の小間物や装飾品もたくさん流れてくるのかい?」
与五郎はたずねた。すみれ柄の金口のがま巾着が目に留まったのである。もしやあのとき自分が娘から抜き取ったものかと思ったが、よくみると柄模様が違う。似てはいるが別物だった。
「ええもちろん、ここのところは欲しがる日本人も増えて、意外と高値がつきますよ。これなんか……」
「刀はないが、俺の体を預けてもらえるか?」
「へ?」
親父は驚いた顔をしている。
「ここでしばらく面倒をみてほしい。職なしで食うに困っているのだ。銭が払えないのなら飯代だけでもいい」
与五郎は頭を下げた。親父は慌てて「やめてください、元とはいえお武家様に頭を下げさせちゃ罰があたります。こんな汚い店でよければいいですよ、ちょうど人手が一人くらい欲しいと思っていたところなんです」
与五郎は頭を上げ、親父の顔を見つめた。「かたじけない」と礼を述べ、また少しだけ頭を下げる。
「それにしても、いったいどうなすったんです? 何もこんな店に目をつけなくても……」
親父の率直な問いかけに、与五郎は「ちょっと探し物があってね。そいつを元の持ち主に返したいんだ。ひょっとすると、この店に流れてくるかもしれない」と答えた。表情はどこかさっぱりとして、瞳には、小さなすみれの花が映り込んでいる。











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