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【日本書紀】語らないことが語ること

『沈黙の行方』という映画を観たことがある。アンディ・ガルシア演じる主人公のカウンセラーが、心に闇を抱える少年のカウンセリングをしつつ、息子が自殺した動機を探っていく、やや暗く重めのトーンの心理サスペンス劇だった。その映画の中で、心理学の講義をする主人公が聴講生らに対し、こんな趣旨の説明をするシーンがある。

カウンセリングにおいて重要なのは、対象者が『何を語るか』ではない。『何を語らないか』である。

確かこんなニュアンスのセリフだったと記憶する。実際にこのような教義的なものが心理学やカウンセリングの分野にあるかどうかはさておき、示唆に富む言葉だと思う。

「言わぬは言うに勝る」とも言うし、「声なき声」とも言う。語らないことや、心の中に仕舞われることの中にこそ、より重要な「情報」が隠れていたり、「真実」めいた何かが秘められていたりするものだ。

ここで、日本最古の歴史書ともいわれる『日本書紀』に話は飛躍する。

『日本書紀』の現代語訳版を読み返しているところだけど、いろいろと想像させることが多い。

そして「なぜそんな展開になるのか」「なぜそういう行動に出るのか」と首をかしげる場面にもたびたび出くわす。

「なぜそうなるのか」という疑問は「語るべきことが語られていない」ことで起こるものだ。

たとえば、スサノオノミコトが天つ神の住まう高天原へ上がり、姉にあたる天照大神に面会する場面でのこと。

スサノオノミコトは天照大神に一目でもいいから会いたいと懇願するも、弟の行動に疑念を抱く天照大神に拒否される。その後、一計を案じたスサノオノミコトが天照大神の誘い出しに成功し面会を果たすことになるのだが、そこでスサノオノミコトが神聖なる田を壊すなどの暴挙に出る。驚き恐れた天照大神は天の岩戸に身を隠す。有名な「天の岩戸神話」である。

姉を慕う純情な弟を演じておいて、いきなり狂ったみたいに暴れまわる。いったい何があったのか、何が理由で、何の目的で狼藉を働くのか、いっさい語られることはない。それが何とも不可解で不自然に映る。

神話の性格も帯びた歴史書なので、人格が謎めいていたり突飛な展開になったりするのはままある。にしても、腑に落ちない。

不自然さが残るのはこの例に限らない。主語が不明確な記述、前後の食い違いや矛盾、当たり前のように回収されない伏線などなど。

その不自然さはただ粗雑だからか、意図的なものか。

日本書紀の編纂は天武天皇の発意により行われた。いわば国策である。編纂作業には当時の知識人が投入され歳月も費やしている。そんな力作が荒っぽさや稚拙な印象をさらけ出したりするものだろうか。

ここで押さえておきたいのは、日本書紀とは国家権力を背景に編纂された極めて政治色の強い歴史書だということだ。権力基盤の安定とゆるぎない統治を目的に書かれたものだから、都合の悪い記述の削除は当たり前のように行われる。

ところでスサノオノミコトは出雲系の神とされる。大国主神などの国つ神の系統に属する神だ。天照大神は高天原に君臨する神で天つ神になる。天つ神の高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)は、地上には豊かに穂が実る「葦原の中つ国」があることを知り、国つ神に代わって統治しようとニニギノミコトを使わす。ニニギノミコトは統治者の事代主神とその息子の大国主神に統治権の移譲を迫った(国譲り神話)。

日本書紀には、出雲地方に大きな政治勢力があったとも、その出雲と大和朝廷との間で戦争が起きたとも書かれていない。書かれてはいないけど、考古学的資料からは出雲地方の大きな勢力圏の存在を認めることはできる。雄弁に物語る資料ではあるけど、言葉や文字で語られる資料の裏付けがないと歴史的事実の認定は難しい。日本書紀が「日本最古の歴史書」であり続ける以上、歴史学的に正しい形での新事実の上書きはほぼ絶望となる。

語られるべきことが語られていない歴史は、ほかにないだろうか。公文書、文献、歴史教科書。ただの書き漏れではなく、あえて省略された歴史にこそ大きな事実は隠される。これは古代とか過去の話でなく、現実の問題でもあることを強調しておきたい。














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