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幕末「強運」を演出した人物④田中光顕

田中光顕
降りかかる火の粉をことごとくかわす神がかりの強運

人の寿命はやはり「天」が決めるのだろうか。歴史上の人物たちの生涯を見ていくと、死ぬときはあっけなく死ぬし、生き残るときは幾度となく訪れる災難にも負けずしぶとく生き残る。ここに紹介する土佐藩の田中光顕(浜田辰弥)は、危ない場面に遭遇するのをすれすれのところでかわす天運天助に恵まれ、激動の幕末明治を生き抜いた。

田中の出身地である土佐藩は、開府以来徳川家への忠誠を誓い、幕末の藩政も佐幕思想に凝り固まっていた。そんな土佐にも勤皇の志士は多く、脱藩して京都や江戸へ向かう者が絶えなかった。脱藩は死罪も免れないほどの重罪である。田中も例にもれず脱藩を試みるが、幸い同志が主家に留学を取り計らってくれたおかげで、合法的に大阪や京へ赴くことができた。留学生として堂々と羽根を伸ばして市中を歩けたのである。面倒を見てくれるよき友を持つことも好運児の条件といえる。

当時の勤皇浪士たちはいきり立った馬も同然で、いつ暴発してもおかしくない危うさをはらんでいた。そんな「やむにやまれぬ大和魂」を内に秘める田中たちは、大胆にも大阪から江戸へ帰国する将軍家茂の襲撃計画を企てる。桜田門で井伊直弼を討った、水戸浪士のようなテロを試みようとしたのだ。が、これは幕府の知るところとなり、将軍の帰国はいったん見送られた。仮にこの計画が実行に移され、首尾よく成功したとしても、田中の命はその瞬間露と消えたに違いない。

この行動がきっかけで田中たちは帰国を命じられ、謹慎処分を受ける。この田中らの土佐帰国と入れ替わりで京へやってきたのが、近藤勇や土方歳三たち浪士組の面々だ。田中が土佐で逼塞していた文久三年から元治元年にかけての期間は、京で池田屋襲撃や禁門の変、大和で生野の変など、多くの勤皇志士の犠牲を生んだ騒擾の発生時期と重なる。結果だけをみれば、勤皇狩りの暴風雨から体よく避難できたと言えなくもない。

田中からすればもとより命を投げ出す覚悟、故郷で惰眠を貪る生活は好まない。とうとう死を賭して仲間数人と脱藩を試みる。元治元年八月のことである。長州に落ち延び、同じく藩を脱走した志士や長州浪士と親交を結ぶが、何か事を起こさねばなるまいという話になり、持ち上がったのが「大阪城焼き討ち計画」。城を焼くと同時に兵を挙げ、攘夷の狼煙とするのが目的であった。

大阪に潜入した田中らは、郷士宅に潜伏し、計画に協力してくれる賛同者を募りながら決行の機会をうかがう。この郷士宅というのは、武者小路家家臣・本多大内藏が営むぜんざい屋「石蔵屋」で、新選組の剣客・谷万太郎の道場と目と鼻の先にあった。

町内に土佐の不穏分子が隠れているとの情報を聞きつけた谷は、門弟数人を引き連れ、ぜんざい屋に踏み込んだ。池田屋事変の再現、となるところが、そのとき田中を含む浪士たちの多くは留守だった。その一方で在宅中だった禁門の変の生き残り・大利悌吉がたった一人で奮闘した挙句、刃に倒れる。犠牲になった大利と、難を逃れた田中。両者の明暗を分けたのはやはり「運」だろうか。

大阪城焼き討ち計画の中止後、田中は大和十津川の潜伏を経て京都へ向かう。京都では坂本龍馬と中岡慎太郎が薩長を和解させるための運動に奔走していた。中岡と面会した田中は、彼が説く薩長連合論に同意。陸援隊に入隊し、中岡亡き後は陸援隊を引き継ぐことになる。時代は大きな転換期を迎え、田中はその奔流に飛び込もうとしていた。

薩長連合運動に奔走する中で、懇意となった高杉晋作との出会いも田中の人生に吉をもたらした。第二次長幕戦争では長州藩の一員として参戦。戦艦「丙辰丸」機関掛となり、高杉が統率する艦隊に組み込まれる。田中は航海術の知識もなければ機関操練の経験もない、ズブの素人だったが、高杉の統率力と敵の拙速な作戦にも助けられ、大きなトラブルもなく任務を全うできた。

甲板に上がった際、敵の砲弾が田中の足もとを襲う。この危機一髪の場面も田中は無事にやり過ごした。やはりこの男には天運がついているとしか思えない。

維新後は、兵庫県判事、陸軍少将、元老院議官、警視総監、宮内大臣など、さまざまな要職を歴任して存在感を示した。昭和14年、96歳で没。高杉との縁が長州との結びつきを生み、数々の要職にも恵まれ、順風な余生だったのではないか。長寿の秘訣は、高杉晋作に教えられた「どんな苦境でも困ったと言わないこと」と語っている。よき出会いを引き寄せたのは、運ではなく、彼の人柄や人間性に惹かれるものがあったからだろう。

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