
「群れるな」という言葉から考える、本質的なつながりの作り方
もう今年も、残すところ1ヶ月ほど。
僕の生活にも、年末の雰囲気が漂ってきた。週末は必ず忘年会などの予定が入っているし、年内の出張もあと1〜2回だ。
最近、年末という普段よりもグッと人に会うことが多い時期ということもあってか、所属したり何かのコミュニティに参加したりする意味などをちょうど考えていた。今回は、その思索にはじまり、そこから気づいたあれこれについて、お話できればと思う。
人が集まる意味って?
そもそもなぜ、コミュニティの意義を考え始めたのか。
それは、Facebookで何度か見ていた投稿がきっかけだった。リンクスでは毎年、何名かに長期間かけて学ぶ研修を受けてもらっている。そこでその研修に関する投稿を定期的にチェックしていると、あることに気づいた。その受講者や卒業生たちが、同じメンバーでよく飲み会をしているようなのだ。
「同じ人とそんなに頻繁に集まって、何か発展ってあるのかな」
単純に不思議に感じた僕は、コミュニティや人が集まることの意義について、尊敬する経営者でもありコンサルティングをしてくれているパートナーでもある中野会長に尋ねてみた。
中野会長は来年70歳。いろいろな経験を積まれている。若い頃には、コミュニティに参加したこともあったという。でも、「結果的にはあまり意味がなかった」と中野会長は話す。
実は僕も以前、そのコミュニティに参加していた。そのコミュニティ自体は、地域のため、社会のために、金銭的な損得だけを考えない多くのことを企画する素晴らしい団体だった。しかし、団体としての活動はそうでも、そこで作ったつながりを通じて、「何かしら儲けたい」「得をしたい」と思っている人が大半のように思えた。関わるうちに、GIVE&TAKEでいうところのTAKERが多いように感じるようになっていったのだ。中野会長も、似たようなことを感じたという。
特に興味深かったのは、時代の変化についての話だ。
中野会長が若い頃には、ネットもなく、本物の情報を掴むためには『人に会いにいく』しかなかった。一方で、本物の情報を持つ人にたどり着きさえすれば、それでグッと成功に近づくことができた。
でも今は逆に、社会に情報もコミュニティも溢れている。「だから、本物を見つけるのが難しくなっているかもね」と中野会長は話していた。
昔は、足を使って人に会いに行ってつながりを作ることが大切だったが、今はそれよりも、本物を見極めることが大切なのかもしれない。僕はそう思う。
中野会長はよく、「群れるな」とも言っている。
群れずに、自分の本業にコミットするべきだ、と僕は受け取っている。そしてその通りだとも思う。そもそも、僕は人と群れるよりも、家で家族といたい派だからそう思うのかもしれない。
インプットの質を高めるために
今回、中野会長にいろいろと話を聞いて、結果的に、自分の人との関わり方は今のままでいいなと感じた。今のままとは、『信頼できる人と深くつながり、その人の紹介で新しい出会いを広げていく』というシンプルな方法だ。
今年に入ってからは、一人でどこかに飛び込んで行くこともほぼなくなった。去年までは、インプットの場を求めて、新しい場所にも出かけていたが、今は信頼できる人が行っているから、この人が紹介してくれたからという理由で新しい場に飛び込んでいる。
こう考えるようになったきっかけのひとつは、昨年から今年にかけてしてしまったある失敗だ。
僕は少し前に自己投資として、自己理解を進めるためのプログラムに参加していた。ただ自分の内面と向き合うだけでなく、違った角度からの自己理解も深められるということに興味を持って参加を決めた。
最初は、その違った視点での試みが面白く楽しんでいたのだが、途中から行かなくなってしまった。僕はこれまで、内省を重ねて自分の内面の言語化を進めていたこともあり、内面の話になった途端、わかりきったことが多くなり、発見がほとんどなくなってしまったのである。そして次第に足が遠のいて行った。
時間もお金も限りがあるからこそ、自分の求めるものがきちんと得られるのかを見極めてインプットの場に行かなくてはならないと思わされた出来事だった。そしてその見極めなしでも信じられるのが、信頼できる人からの紹介だなとも感じている。
また、最近は刺激をもらえるインプットの場を求めてもいる。件の中野会長にも、いろいろな面白い人、ことを教えてもらった。
そのなかで特に興味を惹かれ、会いに行こうと思っている人がいる。吉田すぐるさんだ。
吉田さんは、人の寄付で生きる方だ。もともとコンサルとして活躍されていたが、数年前から寄付で生きる生活をしているそうだ。
その日々をよく発信されていて、僕もその投稿を興味深く見ている。善と悪。肉体と精神。僕たちはいろいろな物事を二元論的に考えがちだ。吉田さんは「そうして二元論的に考えているものを一元的に考えてみよう」とよく言っている。
そうした普通の人がなかなか思いつかないようなことを考える人だからか、中野会長も「吉田さんと話をするとスッキリする」と言っていた。
僕は、吉田さんと話したらどんなふうに思うのだろうか。未知に想いを馳せるとワクワクする。ぜひ会ってみたい。3月頃に会いに行きたいと思っているので、その日が楽しみだ。
こうして、会いたい人に会いにいくことで、インプットの場を増やしていきたい。めぐり巡って結局のところ最大のインプットは、『人に会いに行く』ことなのだ。
「未知との出会い」を求めて
また、一度やってみたいのが、あてもなく気の向くままに1カ月ほど行動することだ。
一分一秒常に会社のことを考えているので、それがもう自分の中でルーティンのようになっている。日々ロジックを使って判断することばかりだ。このロジックという認識の枠組みをすべて外したら、自分はどんな風になるんだろう、どんなふうに感じるんだろう。そう思うことが時たまある。よく考えると、代表になってからはもちろんだが、なるまでの期間を含めても、自分のことだけ考えて、自分の好きなことをやることは、長年していないように思う。
このあてもなく自分の欲求だけに従って動くことを、日本ではない、まったく文化の違う場所で経験してみたい。それはきっと、未知との遭遇にもつながるはずだ。生きていくにつれ、知っていることも経験も増え、「未知との出会い」は減っていく。だからこそ、求めていきたい。
今一番身近な未知といえば、「リンクスを継ぐ人は誰だろう」ということだ。
できれば、僕と考えが違う人がいい。僕のやってきたことを理解して尊重しつつも、「自分はこんなものを大切にしたい」と僕とは違った角度で根拠を持って話してくれる人がいたら、まずは、グループ会社の経営を託したい。
今の体制は僕が作ったもの。僕が作ったものなのだから、その体制のなかで僕を超えられる人はいないだろう。僕のやり方を受け継いでやっていくのではなく、自分でまったく新しいものを作ってほしい。それにより、リンクスはさらに進化し、発展していくはずだ。
これまでのnoteでも述べてきたことだが、経営者として会社と向き合っていると、たくさん成長できる。だからこそ、僕以外の誰かに経営者となってもらって、他者が成長できる機会を生み出したいと思う。
経営者に必要なのは、「ユーモア」
一方で、経営者はやらなければならないことをやり続けているだけに過ぎないという面もある。そのやらなければならないこととはまったく別の、余白も大切にしたい。余白のない人、ユーモアのない人にはなりたくない。代表だからこそ、社員が集まる場に笑いをもたらす責任もあると僕は思うし、ただただ堅実に経営するだけでなく遊びもほしい。
実際に、ユーモアを磨くために、移動時間にはよくお笑いを見ている。お笑いは好きでもあるので、純粋に楽しめるし、喋り方や洒落の勉強にもなる。
セオリーと違うことを言うことは笑いを引き起こすひとつの要素だ。また、笑いとは言葉のセンスでもある。ただ真面目にいるだけではなくて、適切な場で意表を突くような言葉を放てるよう、言葉や表現の引き出しをたくさん増やしていきたい。
僕が「すごいな」と思う年上の経営者たちも、ユーモアのある人ばかり。そしてどこにユーモアを感じるかというと、やっぱり言葉選びなのだ。彼らはみんな、愚直に経営に向き合ってきた人ばかり。ひたむきにやってきた人だからこそ、パッと常識や想定とは反対のことを言う時に、より面白みが生まれる。それに、言葉にも重みがある。そう考えると、それは単なる話術ではなく、経験に裏打ちされた言葉だからこそ、ユーモアや深みを感じるのかもしれない。
僕もたくさんのインプットと、それを活かした経験を通じて、尊敬する経営者たちのような、ユーモアと深みのある、かっこいいオジサンを目指していきたい。
▼僕の自己紹介noteです。興味をお持ちいただいた方は、読んでいただけるとうれしいです。
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書き手 えなりかんな
聞き手・編集 サオリス・ユーフラテス