お台場と江川英龍
幕末になると日本近海には開港を求める黒船がひんぱんに来航し始めたので、危機を感じた幕府は目付鳥居耀蔵(あだ名は妖怪)と伊豆代官江川英龍に江戸の防衛を託した。
さっそく二人は江戸湾沿岸の測量を始め、湾内に10幾つかの砲台を築くことになった。
その後の外交交渉等の進展の中で砲台築造は6か所ほどでストップしたのだが、品川沖に今なお残されたものが、いわゆるお台場である。
さて、ここから本題の江川(太郎左衛門)英龍について記そう。
東海道線沼津から駿東線で修善寺にむかって南下して伊豆長岡で下車し、なだらかな伊豆の背骨を見ながら韮山城跡をめざす。
城跡の背後の池を挟んで江川氏の邸宅であった代官屋敷が保存されており、英龍を慕って全国から訪ねてきた門弟たちの学んだ教場を見ることができる。
代々伊豆を預かった江川氏のうちでも英龍は英明の人として知られており、お台場の築造以上に、本格的な反射炉を築いた功績が記憶される。
代官屋敷からさらに南方に、その反射炉(世界遺産)が聳えている。
上に貼った写真では英龍のご尊顔(銅像)は切れてしまったが、白い耐火煉瓦を積み上げて✖字の鉄骨で補強された反射炉の雄姿がはっきり臨めるだろう。
英龍はここで鉄鉱石を溶かして、お台場に据える大砲の鋳造を図ったのだが、激務に命を削られたのか53歳で早世してしまい、反射炉の完成は息子の代まで待つことになる。
品川お台場に据えられていたキャノン砲
蛇足になるが、英龍は西洋式のパンを焼いたことでも知られ、常食ではなく従軍用の乾パンだったらしい。