怒りは友達である。素敵な友達でも、やさしい友達でもないが、きわめて誠実な友達だ。〜The Artist's Way
描く瞑想として「モーニングページ」と「ジャーナリング」を勧めています。
やることは同じなのですが、意識の面でちょっと違います。
モーニングページはそれ自体(とにかく書く、ただ書く)が目的です(宗教などにおいて瞑想行為自体が目的のように)が、ジャーナリングはテーマや対象を決めてする目的志向で書きます。
知人でこれらに取り組み、一ヶ月くらいたつ人がいますが、最近送ってくれたフィードバックに「怒り」について触れていました。
モーニングページを提唱している『ずっとやりたかったことを、やりなさい』(原題は“The Artist's Way”』からの引用です。
怠惰、無関心、絶望は敵だが、怒りはそうではない。
怒りは友達である。
素敵な友達でも、やさしい友達でもないが、きわめて誠実な友達だ。
それは、私たちが裏切られたときや自分自身を裏切ったとき、かならず知らせてくれる。
そして、自分の興味に従って行動するときであることを告げてくれる。
怒り自体は行動ではない。
行動への招待である。
モーニングページに取り組んでいる彼はこの「怒りは友達。きわめて誠実な友達」ということに最初はとても違和感を感じたそうです。
いや、違和感というよりも戸惑いでしょうか。
自分(彼)にとって怒りとはなんだろうと最近よく考えるそうです。(座ってする瞑想においても)
いまだに「これだ」という回答のようなものは見つかってないそうですが、これまでは「自分はほとんど怒らない、それでいいのだ、それがよいことなのだ、よい在り方なのだ」と手放しで思い込んでいた「思い込み」がはずれたような感覚があるそうです。
これまでは怒りという感情が沸き起こってもすぐに打ち消していたことに気づいたそうです。
怒りが沸き起こっても反射的にそれを「悲しい」とか「残念だ」とか、「さびしい」といった感情、言葉に反射的に置き換えていたことに。
そのことに気づいてからは、実はとっても怒っていたことに気がついたそうです。
なのにそれにすぐにふたをして、それが長い間たまりにたまっていたのかもしれないと。
その「たまりにたまっていたもの」がなんであるかはまだ見えないそうですが、今の自分にはこれに向き合う必要があると感じているそうで、引き続き「書く瞑想」に取り組んでいくそうです。
自分で自分のことは見えないものです。
自分のことはつい手を抜いてしまうのです。
自分のことだからわかっている、知っていると思い込みがちなのです。
それでも、こうした行為(瞑想的な)で見えない部分に光をあてることはできます。
いいことばかりではなく、ときにツライ、しんどい行為となることもあるでしょう。
でも、だからこそ、する価値があるともいえます。
少なくともなにかを変えたいと願うならば。