声が物語を邪魔してはいけない〜ライ麦畑の反逆児
去年のことですが、The Catcher in the Rye(ライ麦畑でつかまえて)の著者であるJ.D.サリンジャーの伝記映画を観ました。
今だとAmazonプライム会員であれば、Prime Videoでレンタル可能。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』については野崎訳もいいですが、村上訳がさらにさらにさらに素晴らしい。
話はもどって、映画ですが、素晴らしいのひとこと。(語彙が貧相で恥ずかしい)
最近はあまりフィクション、小説を読むことはなくなりましたが、それでもいまも処分せずに手許におき、たまにペラペラとめくるのはこの「ライ麦畑でつかまえて」と、チャンドラーの「The Long Good-bye」です。(後者はとくに村上春樹 訳がオススメ)
そしてまた映画に戻って
本作は事実をもとにした「フィクション」であり、映画という娯楽作品であることを十分理解したうえでの副読本ならぬ副読映画(「ライ麦畑でつかまえて」の)として素晴らしく機能する出来になっていると思います。
何度か出てきたフレーズというか肝となるものがあって、それがいまもすごく鳴り響いてます。
それは、まだ師について書くことを学ぶ段階だったサリンジャーが(出版できるレベルになっても)師にアドバイス、指摘される「声が物語を邪魔してはいけない」というものです。
これは瞑想という視点からみると(あくまでもワタクシ的にですが)「声」は「エゴ=自我」であり「物語」は「コンテクスト=文脈」。
エゴがあることが悪いということではなく、相手に届けるのがゴール(目的)であれば、それを邪魔するエゴは黙らせたほうがいいよということでしょうか。
黙らせるというか、適切な役割をもたせる、かな。
戦争で精神に深い傷を負って、書くことが出来なくなっていたサリンジャーはある師について瞑想をはじめます。(ちょろっとハタヨガのシーンもでてきます)
それによってだんだんと回復し、本作(ライ麦畑〜)を書き上げるのですが、それによって得た名声、成功によって逆にまた深い傷を負っていくことになります。
結局は出版目的に書くことをやめ、隠遁生活に入っていくのですが、そこでも書くことはやめないのです。
でもそれは「ただ、書く」。
書くこと自体に意味がある。
最初は作家としての成功を求めて、ある意味「大乗」的な活動からはじまるのですが(ワタクシ的解釈、比喩です)その段階を経て「小乗」になっていったのが印象的でした。
誰かのため、社会のためでなく、ただ自分のために。
大乗(大きな乗り物)や小乗(小さな乗り物)といった行為そのものには意味はなく、これもまたコンテクスト(文脈)があってはじめて成り立つものではないでしょうか。
どんな体験もそうですが、体験する人のコンテクスト(文脈)があり、それによってその体験は100人いたら100通りなのでしょう。
そんな当たり前のことがあらためてリアルに感じられた作品でした。
あ、ネタバレっぽくなっててすいません。
でも、まぁ、大丈夫です。
コンテンツ(映画作品それ自体)に意味はなく、観るあなたのコンテクスト(文脈)がすべてなので。
とにかく、素晴らしい映画です。
(娯楽にはなりませんが、それ以上の悦楽になります)