自分の頭がおかしくなったんじゃないかと不安になる〜フォークナー 『響きと怒り』
フォークナーのとんでもない凄みを『八月の光』で体験して、その勢いにまかせ、さっそく別の作品も読んでみた。
フォークナーの最初の代表作とされ、彼自身も愛したという『響きと怒り』。
これまた度肝をぬかれるほどに予想を裏切られ(予想どおりであれば読む価値はないのだけれど)フォークナーのとんでもなさを、上下巻というボリュームで「いやというほど」あじわった。
『八月の光』も(というよりも、フォークナーの作風そのものが)クセというか、とても個性的、実験的な手法が使われているなという印象はあったけれど
『響きと怒り』にくらべたら、なんと読みやすいことか。
そう。
『響きと怒り』は凄まじくよみにくいのである。
しかも、上下巻なのである。
「読みにくさ」というのはいろいろあると思うけれど、本作のそれは、フォークナー独自のもので、意図的になされた技巧の結果であるがゆえに、ただの読みにくさとはまったく異なる。
その読みにくさもフォークナーが企図したものであり(その結果としての読みにくさでしかない)作品の重要な表現のひとつなのだから。
それゆえに一般的にというか、よくいわれるような読みにくさ(作家の実力不足だったり、構成に問題があったり、文体だったりといった)よりも、さらにさらに読みにくい。
なにがどう(具体的に)読みにくいのかをここであげるのも難しいのだけれど、いわゆる「意識の流れ」という心理学の概念にもとづいて書かれていることが主な原因であることは間違いない。
説明だけで理解(体験したことのないものには)はまず無理で、実際に読んでみるしかないのだけれど、ざっくり乱暴にいってみれば
「意識の流れ」をそのまんま記述した結果、めまぐるしく時間や場面、状況、主体(フォーカスがどこにあたっているのか)が前後左右、縦横無尽に移動し(はい、ここからはこうで、誰が話してて、といった状況説明は皆無)なにが起こっているのか、なにを読んでいるのかがまったくといっていいほど理解できない。
読みはじめたときは、はっきり言って自分の頭がどうにかなってしまったんじゃないかというくらい混乱した(これは『デボラの世界』を読んだときの衝撃、困惑に近い)。
まぁ、『デボラの世界』のそれはあくまでも「病的」なものであり、本質的には「意識の流れ」という手法とはまったく別なんだけど、あくまでも「衝撃」という点で。
上巻はほぼすべて、この「意識の流れ」の混沌にひたすら翻弄される。
そんなことで小説として読み続ける(読了)ことができるのか、味わうことができるのかと不安になるけれど、これが意外なことになんとかなってしまうというのが、また驚き。
なんとか読み終えたいま、『八月の光』のときよりも強烈な読後感、ある種の喪失を感じつつ放心状態になっている。
文学というものにはここまでの力があるのかと。
ちなみに、この「意識の流れ」はフォークナー独自のものではなく、たとえばジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフも用いていて、日本人作家でも川端康成が作品に使っているそうな。
はっきりいって、この小説をすみずみまで深く理解、堪能できたかといえば、そんなことはまったくない。
ひとに感想を聞かれれば、迷わず「とにかくひたすら読みにくい」と即答するだろう。
それでも本作でした体験と、そこからくる圧倒的な力(それによるつけられた傷というか、痕)による身体的(精神的)な記憶はこの先もながく尾をひくだろう。
しかし、さすがに疲れた。
次は少しでもハードルをさげて、短編集にあたってみたいと思う。