和のビーズバッグ・その歴史と特色
戦後復興の華としてのビーズバッグ
お宅にもありませんか?お祖母様の持ち物だったビーズバッグ、もしくは七五三の時にお母様が持たれた小さなビーズバッグ。最近ようやくこのビーズバッグに光が当たり始めました。そこには日本の美意識があり、日本刺繍由来の伝統と技術が盛り込まれています。
ビーズバッグの流行は昭和30年頃からです。戦後の復興・着物ブームとともに各家庭でバッグを購入する余裕が生まれ始めました。女性の社会進出も一つの理由です。また、ビーズバッグは洋装でも和装でも持つことができるというのも、都市部を中心に普及した理由のひとつです。
ビーズバッグの流行以前に、日本でも和装用の袋物というものはもちろんありました。いわゆる信玄袋や風呂敷です。しかし、これらはあくまで「物入れ」であり、アクセサリーではありませんでした。唯一例外があるとすれば、外国製のビーズバッグで巾着状になったものです。しかし非常に高価な品で庶民には手が届きませんでした。そこに颯爽と登場したのがビーズバッグです。戦後の生活様式が変化し、従来の座敷で行われる結婚式から、結婚式もホテルで行われる椅子式の式が増えました。当時の生活様式は映画「最高殊勲夫人(1959年)」などで伺うことができます。そこで映えるのはアクセサリーとしてのバッグです。ひとつあれば晴れの場をカバーできる。しかも着物でも使えるということで、若い女性の支持を得たのです。
では、誰が登場させたのか?
拙著「和のビーズと鑑賞知識」を執筆の際、筆者も製造メーカーについて調査を行いました。そこで出会うことができたのが、東京都台東区蔵前に店舗を持つ「株式会社平田袋物工芸」です。平田袋物工芸は戦後の早い時期からビーズバッグの製造を始め、職人への制作発注を行っていました。現在も製造は続いています。また、書籍の出版から数年して、刺繍教室を主宰する「紅会(くれないかい)」がビーズバッグを制作していたことも判りました。これらの団体以外にも、日本中にメーカーがあったと思われます。しかし古いビーズバッグの中を見ても、製造会社を明らかにするタグなどが少なく、なかなか当時の製造の実態を詳しく知るに至っていません。
「和のビーズと鑑賞知識」刊行にあたり、平田袋物工芸の協力を得て、静岡県在住の職人さんの制作風景などを取材させていただきました。その過程で、日本のビーズ刺繍と西洋のそれの大きな違いが判りました。
それまで漫然と「色と柄が綺麗だから」という理由でコレクションしていたビーズバッグが大きな意味を持ち始めました。戦後に花開いたビーズバッグは西洋の技法コピーではなく、日本刺繍の伝統をひく独自の展開があったのです。また、そのデザインも着物や帯の意匠をそのまま引き継いでいます。
和のビーズバッグのこれから
和のビーズバッグはその後どうなったのでしょうか?
昭和も50年を過ぎる頃から、東南アジア産のビーズバッグが日本に入ってきました。これらは色・柄・デザイン及び手技において和のビーズバッグには及ばないものがほとんどですが、その安い価格で国内に浸透してゆきました。また、昭和60年頃からグッチやルイヴィトンなどのブランドバッグのブームが起こり、和のビーズが占めていたフォーマルバッグとしての位置をこれらのバッグが奪う形になりました。こうして和のビーズバッグは、ごく少数の職人によって作られるのみとなったのです。
また、こうして調査を進めていく上で気づいたことは、どの業界も持っている「後継者不足」という問題でした。職人さんの数はもはや残り少なく、高齢化しています。加えて平田袋物工芸に行って知ったことは、ビーズバッグ製造に必要な機械や口金などが少なくなっているということです。西陣の着物や帯製造で見られる「工程の途中が途絶えるとすべてが途絶える」ということがここでもありました。
【参考文献】和のビーズと鑑賞知識 似内惠子
【お知らせ】一般社団法人昭和きもの愛好会では、この伝統と技術を後世に伝えるべく、展示や教室の開催を行っています。近くは2021年5月27日から30日まで、
ビーズバッグとビーズ刺繍展示会【粒々(つぶつぶ)の輝き】を開催します。ぜひ会場で実物をご覧ください。
昭和きもの愛好会では、動画でも和のビーズバッグの魅力を紹介しております。こちらもどうぞご覧ください。
昭和きもの愛好会 和のビーズバッグの魅力
https://youtu.be/eIFta0iTbEs
https://showakimono.jimdofree.com/ 昭和きもの愛好会HP
https://www.facebook.com/showakimono/ 昭和きもの愛好会FB
(似内惠子 昭和きもの愛好会理事)
(K1955)