
【風の時代】箱根九頭龍神社とポーラ美術館【カラーズ印象派】
12/30、2024年の集大成として箱根神社へ参拝しました。
今年は、日本神話に興味を持ち、日本と自分のルーツを知る元年となりました。
神話の中心地奈良県周辺の神社、龍神伝説の聖地、三嶋大社をはじめとした大山祇神のルーツを辿った2024年を締めくくるにはもってこいの場所が箱根神社。
※あくまでも個人的な想いなので、選ぶ神社は人それぞれです。
三柱の祭神が見守る箱根神社本殿
それはなぜかというと、
箱根神社には瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)の三柱が箱根大神として鎮座しています。

天津神と国津神が融合した転機になった神話
今年、三嶋大社に祀られている日本総鎮守、大山祇神にとても縁があった年でありました。
その娘であるコノハナサクヤヒメは、天孫降臨した天津神のニニギノミコトと結婚します。このことにより、日本列島の二つの力(天津神と国津神)が融合し繁栄の道を歩み始めた。

その二柱の子であるヒコホホデミノミコトは、現皇室へ直結する初代、神武天皇への系譜へと繋がっていきます。
箱根神社は日本創建にとって非常に重要な神々が鎮座しています。
九頭龍大神を祀る九頭龍神社・新宮
また辰年だったこともあり、龍神が祀られている小さな祠や水の大切さを巡る1年でもありました。
箱根神社のすぐ脇には、芦ノ湖の守護神・九頭龍大神をお祀りする神社があります。
これら二つの神様に今年お世話になったお礼を伝えるのに最適なのがこの箱根神社でした。

2024年後半から移行した風の時代
また、2024年11月から、時代は土の時代から風の時代へ移行した、と云います。
このような大きな変化は248年ぶりだそうです。
風の時代とは
土(物質、可視、定着)→風(非物質、不可視、流浪)
情報や知識など形のないもの、伝達や教育などが重視され、人々は何より「知る」ことを求めていくことになります。 「持つ」ことから「知る」ことを重視するように世の中の価値観が大きく変わる時代の潮目を迎えています。
確かに人々は、2010年代以降、スマートフォンの爆発的普及によって情報、無形のものに価値を見出す時代に突入しました。
従来の資本主義のかたち、物の所有ではなく、共有(シェア)の文化へターゲットをシフトしてきています。
目に見えないもの一つ、『人の心』。風の時代では人々の繋がり方も変わっていくことになる。今までの法律や立法で縛りつける契約社会から、相互理解や想像力、相手の気持ちを汲む、思いやりの力を以て無形の信頼関係を築いていく時代へと移行する。

日本人は本来、理屈(言葉)よりも信用(人)で動く民族です。以外にも日本人が、風の時代の先頭に立っているとも言えます。
ある意味、江戸時代以前の日本式のコミュニケーションに回帰していくのだろうと思います。
先祖信仰の大切さ
ところで年齢を重ねていくと、お墓参りの必要性に気づく人が増えるそうです。きっかけは人それぞれだと思いますが、

僕にとってはそれが日本神話との対峙でした。日本のルーツや日本人としてという大きな枠組みに、個人としての想いを重ねていった結果、先祖信仰の大切さに辿り着きました。
デジタル、可視化、洋式化による利便性は信仰心を日本人から奪っていく一方、本当に人間社会に必要なことは、何か見えないものを信じることである、ことに『気づく』時代でもあったのかもしれません。

時代の進行は、あらゆる生命現象で見られるのと同様にスパイラルです。3歩進んで2歩下がるのです。
デジタル社会によって分断されていた人と人が、顔を突き合わせたコミュニケーションを求めていく時代へと回帰していく。
果たして何もかもデジタル化することが人が求めていた事なのか、立ち止まって考える時にすでに入っているように感じます。
地球規模で時代が変わる兆候
土の時代へと移行した248年前、1776年に何があったか調べてみたところ、米が英から独立宣言をした年でした。

米が合衆国として北アメリカ大陸の土地の権利を主張した年、これによって土の時代へ入りました。
その後の資本主義、貨幣経済の闇ともいえる利権、占有、財貨といった物質と領土拡大への執着は、大国が核ミサイルを何百発も貯め込み睨み合う現在の状況がまさにその象徴です。
2024年風の時代への移行完了の象徴がトランプ政権の再選。

トランプが掲げる政策はまさに土の時代に積み上げてきたものの破壊であり、風の時代に乗り遅れている人々から見ると革命家的な危険人物に映るでしょう。(それが現メディアの目線)
風の時代は、能動的に情報を取捨選択し、自分の頭で考え、実践していく時代になります。
今までのように与えられた情報を鵜呑みにし、周りに巻き込まれていく生き方では通用しなくなる、という事は少し考えれば判るかと思います。

このように大きな枠組みに振り回されず、一つの軸を持って生きることが、一般人の僕たちにとって時代の潮目に大事なことだと思います。
そのうえで、『世界と日本』、『地域と自分』の立場を双方の視点から再確認するという意味で、日本神話や先祖、つまり歴史に目を向けつつ未来方法へ『行動する』ことが一つのポイントになると感じます。
2年半ぶりのポーラ美術館
ポーラ美術館では企画展『カラーズ-印象派から現代アート』へを見に行きました。

以前の企画展『モネからリヒターへ』と同様、印象派時代の作品から徐々に時代を進め現代アートまでの変化と歩みを濃縮して体験できる企画展です。
序盤のエリアにはモネ、ルノワール、ベルトモリゾといった印象派の代表格が列挙します。



この並びは圧巻、正直この空間だけでも大満足・・・
淡い色使いや曖昧さを残すタッチは日本人に受け入れられやすい画法ですね。
その中でも個人的に印象に残り続けている作品がベルトモリゾ「ベランダにて」

“窓際から差し込む柔らかい光の中で何かの作業に集中している少女。それを傍らで作者が油絵で描いているシーンを想像するとなんとも平和でほっこりする作品です。 印象派技法だからこそ、題材が際立っている作品だと感じました。”

ポーラ美術館には所有し続けてほしい作品の一つです。
続いて点描技法のスーラや色彩感覚が独特なゴッホ、ピカソを経て、ヴラマンク、マティスといった明暗がはっきりしてゆく近代へ。
ピカソの青の時代に描かれた作品には現代のスキャニング技術によって、青を基調とした仕上げの下に鮮やかな色彩で描かれていた層があるらしい。
時代は抽象画を中心とする現代アートへ。

こちらはリヒターの抽象絵画(今回は撮影禁止だったため画像は前回の企画展のもの)、2年半ぶりに見てみると、ちゃんとした湖面を描いた後に原色絵具をべた塗して一度ぶっ壊しているように見えました。

描いている途中で何かあったんでしょうか(笑
確かに左脳的に描いた絵って時間をおいてみると何かが足りないと感じるのはよく分かる。面白味が無いというか・・・(自分の絵の事ですが)
なので一回破壊したくなるんですよね・・・
やっぱり芸術は右脳的な、人の心を動かす、という部分に真髄がある。と感じます。
最近ブームの写真と見分けがつかない写実絵画とは正反対の想いが見て取れました。
続いて現代アートエリアで恐らく目を引くのは山田航平の作品。

現代日本がけん引するアニメ・漫画サブカルチャーを象徴する作品群です。
この作品を見て僕は古代エジプトの壁画を直感的に思い起こしました。
抽象画から昇華された日本の最新アートコンセプト(2次元)と数千年前の古代エジプトの平面芸術とが重なるのは面白いなと思います。

黄金比は自然に入るのか問題
古代エジプトのピラミッドや神殿には黄金比がたびたび現れるそうです。
当時黄金比を算出できる数学も発展していなかった時代にどうやって採用したのか?

人の感性に美しさを図る何かがあるのか・・・
壁画の神々の姿は実際の人の比率とは異なるにもかかわらず統一性がその美しさを引き立てている。
うつくしさとはそのものではなく集合体になって始めて顕現するとも言えるのでしょうか?

美しいと感じることと、心を動かされることは別もの
意図的に入れた黄金比と、美しさを求めて偶然に黄金比となったものでは感じ方が違うと、これは持論ですが。
黄金比だけ見ても人は感動しない、黄金比になった経緯(物語)という奥行の部分に、本当に心を動かされるものが内在していると。
その違いは左脳(意図的)、右脳(偶然、直感)なのだろうと推測します。

言葉にするのが難しいのですが、数学が発見した黄金比が、『なんとなく美しい、なぜか好き』という右脳的な情動へ影響を及ぼしているとしたら、それは人から湧き出てきた感覚自体を変えてしまうことになるのでは?
と思うと眠れなくなる今日この頃です。
これは科学や言葉が持つ曖昧さを打ち消す、西洋的二元論の欠陥なんじゃね?とも思ったり・・・
禅や悟りの思想を言語化することが難しいように、美もしかり・・・
ここから導き出される仮説は、
本当の芸術は右脳から出力される。しかしながら出力されたものを芸術だと評価できるのは左脳ってことになる。と思います。
二分心仮説と芸術/ジュリアン・ジェインズ神々の沈黙
古代、両脳は分離していて、左脳、右脳は別々の人格を備えていたという仮説(二分心仮説)がありますが、
これに両脳が統合したことで初めて芸術が人類にもたらされたとする仮定を重ねてみると面白い。
確かに紀元前1000年頃を境に芸術や哲学といった内省の文化が発達したと同時に、人間がより人間味を増してくるように見えます。。
ジュリアン・ジェインズの二分心仮説を重ねてみると、右脳と左脳が分離した意識を持たない状態から、文字の誕生とともに左脳が発達して脳が一つに統合したことで人が意識を獲得した。その結果、過去ー未来という時間的な深さを認識できる左脳によって心の情動という深さを自覚できるようになったことが『芸術』だと考えると、この仮説の点が線で繋がっていく。
つまり左脳と右脳がお互いを認識し合うことが意識(自覚)であり、その副産物が芸術(内省、クオリア的なもの)なのでは。
だから古代エジプトの壁画は平面的なのかもしれません。(時間的深さがないので絵が平面になる)

とすれば古代エジプト人が自ら壁画に残したものを芸術と捉えていたかの答えはNOですね。
あれは当時彼らが必要に駆られたから残した。右脳から湧き出る情動に従って描き残した。だからこそ現代に芸術として評価されているのですね。
それ以降は、発達した左脳が右脳とぶつかり合いながら生まれるのが芸術となった。つまり生みの苦しみが評価される時代です。

そこは個人がコントロールできる領域ではない、と。
ちょっと自分でも何言ってるか分からない感じですが・・・(笑)書きながら考えているので、なんとなく伝わると嬉しいです。
企画展に戻り、立体作品の中で気になったのはこちら。

こちらの作品は偶然か意図的か・・・背景の白と重なって日本国旗をイメージしました。
最後は草間彌生、無限の鏡の間。
たくさんのカラフルなボールが鏡に反射した無限空間が広がります。色が洪水のように溢れる現代のデジタル社会のようです。

最近の娯楽コンテンツのキーワードに『没入型』がありますが今後のアートシーンでも没入型は新たなトレンドの基礎になっていくのでしょうか。
ものの所有から体験型へ・・・まさに土から風へ移行する時代にマッチしたポーラ美術館の企画展、カラーズでした。
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