レジリエンスって言葉が嫌いだ
最近、レジリエンスって言葉を目にする。何でも、心の回復力って意味らしい。
困難に直面したときに、その困難に対応できる能力なのだそうだ。ビジネスなんかで最近注目を集める概念だとのこと。
とっても大切な概念だよね。困難に負けずに立ち向かっていける力ってとっても大事。
でも、使い方を間違えると、とっても危ない言葉になりかねないな、ってこの言葉について書かれた記事を読んでいると思うことがある。正直、この言葉って嫌いだな、って感じるような記事が多い。
最初に違和感を感じたのは、ヤフーニュースに載っていたカウンセラーの方が書いた記事だった。ビジネスで失敗してどん底にある人に対して、「レジリエンスを持てないから駄目だ」みたいな論調で論破しているような内容。
その記事を読んで、この筆者は、本当にレジリエンスが必要なところまで、人生落ち込んだことがないんだな、って思った。
自分で対応してなんとかなるような困難なんて、困難なんて言うのかな?
もう、どん底まで落ちちゃったら、一歩踏み出したら後は断崖絶壁に落ちていく、ってところまで人は追い詰められる。
そうなったら、部屋に雨の日用に渡してある洗濯紐を見ても首を吊りたくなるし、高いところに登ったら手すりを越えたくなるし、踏切で立ち止まったら走ってくる電車に突っ込みたくなる。
反対に、行動力がなくなってしまったら、もう布団から一歩も起き上がれない、何もできない、トイレに行くのさえしんどくなる。
そんな人に「レジリエンスを持て」ってハッパかけたって、わかっちゃいるけど、無理なんだよ。
「レジリエンスを持て」って言われて、自分でどうにかできる人は、まだまだどん底を見ていない人のような気がする。
心が完全に折れてしまう状態というのは、骨を骨折してしまったようなものだと思う。骨折はとにかく痛いし、ホンの数ミリのヒビだけでも、全く力が入らなくなってしまい、日常生活全般に大きな支障をきたす。
しかし、治すためには自然に治るのを待つしかない。ボルトを入れるような状態にならなければ、骨が正常な位置で元通りくっつくように固めたら、後はギプスで固めて、自然治癒力で治すしかないのだ。
せいぜい外野からできるのは、動かせなくなった動きを周囲がカバーしてあげることと、治りを早くするために栄養のある食事を用意してあげることくらいだ。
後は、本人も意思しないところで、身体の中の工場が頑張って新しい骨の成分を骨折部分に充填して、折れた部分がくっつくのを待つしかない。外から接着剤を注入して骨をくっつけることはできないはずだ。
だけど、心が折れた人に対する「レジリエンスを持て」って説は、ポッキリ折れて本人もどうしたらいいのかわからなくなっている状態で、外側から力を加えて無理やり復元させようとしているようなものに見えてしまう。
下手をしたら、折れている方向に無理やり力を加えられて、完全に断裂させてしまうかもしれない。
心が折れてしまった人に必要なのは、せめて餓死しないように最低限の命をつなぎ続けられるだけの衣食住の世話と、変な方向に走らないように見守ること、本人が気持ちを吐露できるだけの気力があれば話を聞いてあげることくらいじゃないだろうか。
折れてしまったものはどうにもならない。
ただ、幸いなことに、神様は人間に時薬というものを授けてくれたようだ。
時間が経てば骨折も自然と骨が再生されてくっつくように、心も時間が経つことで自然と回復させてくれる力がある。ただし、回復までにかかる時間が早いか遅いかはひとそれぞれだ。
「レジリエンス」を自分がどうやって鍛えていくのか、どうすればもっと自分を強くできるのか、っていう言説で使うのはいいと思う。
でも、心が弱っている人に対して使うのは違うだろう。心が折れてしまった人に対して「レジリエンスがない」「レジリエンスを持て」って酷なことは言わずに、その人が持つ自然回復力を信じて、できることならそっと寄り添ってあげてほしいと切に願う。