止まらない脳内悪口会議が無限ループしている

なんかさ、一人でいる時間が長いと、気がつくと頭の中で特定の人への悪口が無限ループしていることが多い。

「なんだよ、あのとき!」
「どうせお前はそう思ってたんだろう?」
「私をいじめて楽しかったか?」

妄想悪口は止められない。今までに何度も止めようと思って、いろいろと努力してみたけど、どうせ止まらない。だから、もう最近は自分から乗ることにしている。

「そうそう、あいつ、性格悪いもんね」
「私のこと、あんな風に思っていたに決まっているじゃん」
「だってあいつ、根っからのいじめっ子だもん」

そんな妄想悪口会議を無限ループさせながら、近所の人に笑顔で挨拶している自分。かなり怖い。悪口の当事者がご近所にはいないことだけが幸いだ。これで、脳内悪口の当事者に向かって毎朝笑顔で挨拶していたら、完全に人格が分裂した人になりそう。

人には知られたくない二面性があって当然だけど、そんな二面性が自分の中に明確にあることを自覚しながら、心のなかでニタニタできる自分の精神性は、やっぱりどこかおかしいのかと思う。

今はまだ脳の働きがしっかりしているから、多面性を保っていられるけれども、これから年齢を重ねて、認知能力が低下してきた時に、悪口が無限ループしている部分の自分がどう出てくるのかが怖い。

そうならないように、やはり性格を変えたほうがいいのかもしれないけれども、50年間という年月で育ててしまった性格の悪さは、もう変えようがないだろう。

認知症になったときに、悪口無限ループの面が出てしまったら、子どもや周りの人にどれだけ迷惑をかけるのだろうか?と考えるとやっぱり恐ろしい。

でも、人にはいくつもの面があって、良い人や優しい人の面もあれば、他の人に対しては意地悪だったり鬼だったりする面もあるだろう。

表面的には良い人、優しい人を装っていても、外側から見えない心の憶測では、とんでもない恨みつらみをつのらせていることもよくある。

私が子どもの頃は、田舎の農村で生まれ育ったので、近所の農家のおばあちゃんたちの立ち話がよく聞こえてきた。祖母や母親が近所の人と愚痴悪口大会をしているのもよく聞いた。

私はおばちゃんたちの愚痴大会や悪口大会が苦手で、あまり近寄りたくなくて、大きくなってからも女友達のそういった輪に入れなかった。しかし、数人で集まって愚痴や悪口をこっそりと言い合うような場は、昔から必要だったのだろう。それで、ストレスを発散させて、生活にバランスを取っていた面は確かにあったと思う。

また、便所や塀の落書きなんてのも、庶民が匿名でしか表明できない本音を世間に出すのに大切なことだったのかもしれない。

世間体を大切にする日本人は、表立って不満を口にすることは難しかったのだろう。そういった思いを、こっそりと匿名で表現する手段として、落書きなんてのがあったのかもしれない。

そう考えると、ここ最近の誹謗中傷問題もなんだか理解できるような気がする。

SNSや掲示板に書き込まれる誹謗中傷の内容は、昔からよくあったご近所さんのヒソヒソ話の悪口大会や便所の落書きとほとんど同じだと思う。

でも、ヒソヒソ話や落書きなら、それは大きく世間に表出されることはなく、庶民が腹の中で抱えている愚痴や不満も大きく取り上げられることはなかった。

ところが、SNSが登場して、誰でも自分の思いを簡単に世間に出せるようになったことで、以前ならヒソヒソ話や落書き程度で終わっていた話が、大きく世間に出るようになってしまったのではないか。

そして、なんとなく感じていた不満や愚痴を、誰かがSNSでわかりやすく言語化してくれることに対して、共感する人が拡散することで、どんどんと大きく広がってしまうようになっているような気がする。

ヒソヒソ話や便所の落書きとは違い、SNSの言葉はより強く人の心に刺さってしまうものなので、影響力は大きく、同じような内容でも向けられた人が傷つく度合いは深いのかもしれない。

しかし、内容的にはかつてのヒソヒソ話や便所の落書き、飲み屋で交わされる愚痴程度の話しかしていないのだと思えば、実は誹謗中傷を向けられている人の人生を大きく変えるほどのものではないだろう。

そして、今は簡単に毒のある言葉が拡散されてしまうけれども、いずれ何らかの規制か技術革新によって、人を傷つける言葉の拡散はできなくなるはずだ。

そうした時に、生き残れるSNSの言葉はどんなものなのだろうか?その次世代の言葉を見ながら育った子どもたちが作る未来はどうなるのか?と考えると、世界の未来にちょっとワクワクする自分がいる。

そして、そんな未来に生き残れる言葉を綴ることができるのか、noteでの私の挑戦はそんなところにあるのかもしれない。

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