真の教養人にはなれなかった自分
「教養人とは相手を思いやることができる人のことである」
出典は忘れたけれども、かなり昔にこんな意味の言葉を読んで、少し衝撃を受けた。教養とはひたすらに本を読んだり良質な映画を見たりして、知識や話のネタを豊富にしていくことだと思っていたからだ。
ただ、自分のそんな考えには大きな欠陥があったようだ。ひたすらに知識を仕入れて話のネタを豊かに蓄えていった先がどうなるのか?
それは、良好な人間関係を構築して、その力を社会に還元していけるようにすることにほかならない。
勉強することも、スポーツをして体を鍛えながらチームワークについて学んでいくことも、その先にその頭脳と体力、協調性を社会にどう還元していくのか、ってところが問われていくわけだ。
さて、自分を振り返ってみると、ひたすらに知識を求めて来たような気はするし、なんとかそれを自分なりの方法で社会にお返ししたいとも考えていた。でも結局やることなすことなんだかうまくいかずに、結局はほぼ引きこもり状態だ。
そして、その状態になってから、自分自身の人間性のサイズに合っているのが今の生活だってことにようやく気がついた。
以前はかなり無理して背伸びしながら生きていたからだ。背伸びしてみても、自分のサイズには合わないところに手を伸ばそうと無理をしていた。
いや、そもそも、自分のサイズに合わない場所に行こうとしていたから、本気を出せなかったのかもしれない。
そして、溜め込んだ知識は無駄になり、今はただただ年齢とともに忘れていくばかり。でも、なんだかそれでいいじゃん、って気もする。
本当なら、蓄えたものをもっと世の中のお役に立ててみたかったけれども、他の人に必要ないって思われていたのであれば、結局自分がそこまでの人だったということ。
いや、もっとうまくやる方法はあったかもしれない。でも、自分にはそこに踏み出す勇気がなかっただけなのだ。
そこに踏み出す勇気を持つことや、もっと世の中のためになるという信念を持つことができれば、また違った結果があったのかもしれない。でも、自分はそこにはいかなかった。いけなかった。だから今の自分でしかない。
自分は自分が蓄えた知識を世間様のお役に立てることができなかった、教養人にはなれなかったということだ。
そう考えると、最近、人への態度もなっていないなと思う。引きこもり生活が長くなったせいか、ちょっとした気遣いが全くなっていないと、人に会うたびに反省する。
いや、人への気遣いもしたくないから、人に会いたくない。そして対人スキルはどんどんと失われていく。
さて、自分はこれからどこまで削れていくのか、アラフィフおばさんの荒廃の行く先はどこへやら。