【創作小説】書道の成績が0点の高校生が平安貴族の幽霊と出会う話(4/6)
創作小説『少女と言祝の筆』
第四話 教師
『……さればこそ、あなたとわたしの縁がつながったのね』
書道教室に現れた平安貴族の幽霊。
彼女の言葉を追うように、窓から夏風が一瞬強く教室に吹き込み、私の前髪をさらりと揺らした。
(それって、どういうこと……?)
彼女に尋ねようとした瞬間、私の心臓が跳ねた。
書道教室の扉が開いたのだ。
ガタッと椅子の音を立てさせ、扉の方を見ると、見覚えのない、若い女性の先生が立っていた。
「あ、ご、ごめんなさい。貴方が、一年五組の八色透花さん?」
少しかすれた高めの声で、私の名を呼ぶ先生に、そうですと、小さく応えた。
「えっと……、今日から書道の補習を代行でつとめます、社会科の花染です。よろしくお願いします」
「社会科……?」
「あ、はい。えっと。芸術科の先生方が忙しく、私が急遽担当することに……、あ、でも、大丈夫だと思います。課題は、一人でも問題なく出来るものを、高井先生が用意してくれました。私の役目は出席の確認と、課題をしっかり八色さんから受け取るだけなので……」
まぁ、誰でもいい役回りなんです……と言いたそうに、花染先生は苦笑いした。
先生の言動が、生徒相手なのにあまりに腰が低すぎて、逆に申し訳なくなる。補習の対象者は私だけなので、私さえいなければ存在しない業務を、先生に課してしまった。
「すいません、こちらこそ、よろしくお願いします」
「あ、はい。えっと、さっそく課題ですが……」
そう言って、花染先生は臨書の課題らしきプリントを、説明してくれる。正直、課題に対してやる気があって登校したわけじゃないので、花染先生の自信なさげな説明を、申し訳ないが大雑把に聞きながら、私は先生を観察する。
肩にかかるかかからないかの、色素の薄い真っすぐな髪に、白いブラウスと紺色のパンツ。知りもしない生徒と一対一の空間で気まずいのか、首筋に細く汗が流れているのが見える。眉が下がっているのは、元からなのか、困っているからなのかは、分からない。
『う~ん……、幸薄』
(こらっ!)
彼女はくっくっくと笑いながら花染先生への悪口を残し、陽炎のように消えた。まったく気まぐれだ。でも、彼女がいては課題に集中できないので、逆にほっとする。
花染先生の方へ視線を戻すと、先生は私の手元をじっと見ていた。
「八色さん、その筆……」
「あ、えっ? あっと、これは——」
まずい。この小筆、そもそも準備室から勝手に拝借したやつだ。
成績0点のくせに、勝手に学校の備品を盗むヤバイ奴に思われるのはまずい。いや、でも最初にこの小筆を使わせたのはあの幽霊のせいだ。私は操られていたんだ。
って、そんなこと言う方が、もっとヤバい奴に思われ——。
「綺麗ですね、すごく」
「へっ?」
一瞬、先生の言葉が理解できなくて、私は口を開けたまま、何も言い出せずにいると、
「……あっ、ごめんなさい。つい、えっと、すいません」と先生は両手をあわあわと振って、慌てて私から離れようとするので、「いえ、大丈夫です」と、私は咄嗟に答える。
結局、先生は何も言わず、軽く会釈して、教室後方にぱたぱたと駆けて行った。
そこでチャイムが鳴る。
なんだか気まずいままだが、チャイムのせいで、こちらから何かを言い出す空気でもなくなってしまった。
なるべく先生の方を見ないように水道に向かう。乾きかけた硯にもう一度水を垂らした。
流れる細い水。窓からは穏やかな夏風。揺らぐ日焼けしたカーテン。墨のかおり。扇風機の音。
(——あっ)
「あの、先生」
「は、はいっ」
「教室、わざわざ換気して、涼しくしてくれて、ありがとうございます」
私が書道教室に入ったとき、誰かが私より早く教室に来て、窓を開け、扇風機を回してくれていた。
きっとそれは、花染先生のおかげだろうと、私は思ったのだ。
先生はしばらく固まって、ようやく私の言葉の意味が分かったのか、はっと目をまるくして、そして柔らかく微笑んだ。
◆
準備室に入り、私は八色さんから受け取った課題を確認する。
初回の課題はかな書道で、「蓬莱切」の臨書だった。「蓬莱切」は平安時代の和歌集から抜粋された和歌を、藤原行成という書の達人が書いた、書道のお手本のようなもので、高校生の書道の課題にはぴったりだろう。
八色さんの丁寧な書を見て、ある疑問が浮かぶ。
気崩しのない夏服の制服から、伸びるすらりとした腕と脚、伸びた背筋に降りる几帳面に結ばれた三つ編み。きっと開始時刻の十分前には教室に入っていただろう。
どう見ても彼女は素行の良い真面目な生徒だ。初対面だと言うのに、こちらを真っすぐに見据える大きな瞳を、少し怖く感じたが、それは小心者である自分のせいだろうから、彼女の問題ではない。
——そんな八色さんが、どうして補習を受けることになったのだろう。
手に持っていた半紙が揺れる。半紙を揺らしたのは、準備室の窓から入ってきた心地よい風だ。窓際に置いてある薄紫色の紫陽花も嬉しそうにしている。
紫陽花に水をあげようと、コップに水を入れていたところで、準備室の扉が叩かれた。
「花染先生、いますか!」と、張りのある声が聞こえる。なるべく大きな声で「います」と返事をすると、勢いよく佐藤先生が扉を開けた。
佐藤先生は体育科の教師であり、八色さんの担任でもある。
「いや~、花染先生、本当にありがとうね。八色、ちゃんと来た?」
「はい。早くに教室に来ていて、しっかり準備して待っていてくれました。課題も問題なく出して、さっき帰りましたよ」
そうかそうかと大きく頷きながら、高井先生のデスクにどすっと重そうなビニール袋を置く。何か飲み物が入っているみたいだ。
「これね、高井先生からの差し入れ」
佐藤先生はほいほいっと、ボトルのアイスコーヒーや紅茶のパック、そしてお菓子を取り出す。いや、悪いですよと私が言うと、「遠慮しない!」と、個包装のお菓子の袋を豪快に開け、「ハッピーをターン!」となかば投げつけるように渡してくれた。
「花染先生がいてくれてマジで助かったよ。芸術科ってさ、超個人主義の人らじゃん? あんまり科としての一体感がないからさぁ、今回の補習も全然気にかけてくれなくて! あっ、いまのオフレコで。で、高井先生から受け取った課題も『え? そんなのありましたっけ』ってあわや紛失しかけてたし。だからといって代わりの書道の先生は、非常勤で呼ぶらしいから夏休みは来てもらえないでしょ。そんなときに思い出したわけ。『あれ、花染先生って、書道の資格持ってなかった?』って!」
「いや……、でも教員免許じゃなくて検定ですよ。公的な資格でもないですし、だから書道の授業はできないので……」
「まぁまぁ、免許無くてもそのへんの人よりは教えられるでしょ? それに無免許でも指導出来るって、ブラックジャックみたいでかっこいいじゃんか!」
はっはっはっと笑いながら、佐藤先生はどこから持ってきたのか、グラスに氷とアイスコーヒーを注ぎ、気持ちよく飲み始めた。私も思い出したようにそっと、紫陽花に水をやる。
どちらかと言えば、検定を持っていることは、補習を任された表向きの理由だ。
本当の理由は、灘が丘高校で一番、新任の私が暇で役立たずだから。
その証拠に、副顧問を務めるバレー部と吹奏楽部の主顧問の先生方に、「書道の補講を担当しても良いか」と尋ねると、即、許しが出た。涙が出そうだった。
「……あっ、そういえば」
「ん? どうしたの?」
「八色さん、本当にすごく真面目でした。でもどうして、成績を落としたのか気になって」
芸術科目の単位が取れない生徒は、ほぼ確実に、病欠や不登校で長期欠席をした生徒だ。
私は三年生の学年団に所属しているため、そういう情報も三年生のものしか入ってこない。
でも、たった一週間程度の関わりだとしても、八色さんに対して何か配慮しないといけないことがあるなら知っておきたい。
「あー、そうか。職員会議でも、八色のことは特に話さなかったか」
佐藤先生は飲み干したグラスを胸元に下げ、溶けかけの氷を遊ぶように揺らしながら言った。ほんの小さく、氷のぶつかる音が聴こえた。
「八色はね~、超・超・超、真面目な生徒。本当はもっと上の高校行けるの。だけど家計のこと心配して、うちにレベル下げて特待生としてここに入ってきた。偉いよね。でもね~。ちょーっと真面目が度を過ぎているというか、まぁ、一種の中二病なんだよ、八色は」
「え、中二病?」
「うん。真面目過ぎて、周りの『ゆるさ』が許せないんだと思うよ。あいつは何も言わないけどね。だけどずっと不機嫌そうに、教室の隅にいる。六月の末ぐらいかな、そんな不満が爆発したのか、書道の授業で——やらかしてね」
◆
六月末の書道教室。
重い雨が降るなか、かすかに漂う夏の予感が、いつもより教室を賑やかにしていた。
談笑する生徒。立ち歩く生徒。先生に助言を貰う生徒。
学期末の作品を仕上げるその時間、八色透花は何を思ったのか、その太筆で〈呪いの言葉〉を書き殴っていた。
——お前が死ねよ。
騒然とする教室。
高井先生がその場で八色透花に「どういうつもりだ」と追及したが、八色透花は何も語ろうとはしなかった。
その後、八色透花の行為は「問題行動」だと認定され、彼女は一学期の書道の成績を落とすことになった。
(続く)