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【創作小説】書道の成績が0点の高校生が平安貴族の幽霊と出会う話(2/6)

前回までのあらすじ
 七月の海辺の田舎街。夏休みの初日だというのに、高校一年生の八色透花(やしろとうか)は書道の補習を受けに登校していた。彼女は一学期の書道の成績が0点だった。
 不眠に悩まされていながら登校したにもかかかわらず、書道教室には教師がやってこない。透花は課題を探すため準備室に入ると、不思議な小筆を見つけた。
 その小筆に触れた瞬間、透花は〈何か〉に体をのっとられ、小筆で謎の文字を書く。怯える透花の目の前に現れたのは、平安貴族の幽霊だった。

 

創作小説『少女と言祝の筆』

第二話 並走

 
 
 私はその日、人生で初めて、廊下を走った。

 乱暴に開けた書道教室の扉を閉めることなく、すれ違う先生に会釈することもなく、ただ、無我夢中で校舎を飛び出し、地獄坂を駆けおりた。

 正門を抜けて五分ほどにあるバス停「団地口」に停車していた市営バスに乗り込む。飛び込んできた私の尋常でない荒い呼吸と形相に、団地に住んでいるだろう白髪のご婦人がぎょっとした。

 間もなくバスは出発した。

 バスは山の麓から海辺の街へと続くゆるやかな坂道を、たった〈三人〉だけを乗せ走っていく。
 車内後方に座ってこちらの様子をちらちらと確認するご婦人と、ご婦人が様子を伺っているのはもちろん、整わない荒い息をなんとか手で口を覆いごまかす私と……。
 そして——。

『なに!? このくるまは! 馬も牛もいないのに走るなんて、もののけかしら!?』
(物の怪はおまえだ)
『なにか言った?』

 私の隣に座る、書道教室に現れた、平安貴族の幽霊……。

「どうして……」
 まさかねと思った私は、スクールバッグからあるものを取り出す。

 あの白い桐箱だ。
 私は書道教室を飛び出した際、なかば投げ捨てるように小筆と一緒に置いてきたのに——桐箱はここにあった。そして中には、あの小筆がしっかりとおさめられている……。

 雷に打たれたかのように、私は劇的に思い出した。
 クラスメイトたちが囁いていたのを、内心馬鹿にしながら聞いていた、噂話。

 ——灘が丘高校の七不思議。

 うろ覚えだが、内容はよくある「学校の怪談」だ。
 裏山の神縛り。四時四十四分の教室。屋上で自殺した幽霊。ゴミ捨て場の心霊写真。夜の音楽室のピアノ、動く石像、そして——。

「呪いの、筆……!」

 書道教室に封印されている『とある筆』。その筆を使ったものは、筆に憑りついた幽霊に体を操られ、ありとあらゆるものを呪ってしまう……みたいな内容だったはずだ。

(じゃあ、さっきの……意味の分からない文も、呪いの言葉?)

『なに? 呪いの筆? それはわたしのこと? 気分悪いわねぇ! わたしは〈呪い〉なんてかけないし、怨霊でも、物の怪でもないわ』

 幽霊は軽い雑談のノリで私に話しかけてくる。
 彼女の声は私にしか届いておらず(姿も私にしか見えておらず)、バスの運転手も、後ろに座るご婦人も、この饒舌な平安貴族を気にする様子は無い。

『もとは月和寺ってところにいたの。知ってる? 花尾山にあるお寺』

『だけどね、ある晩、怪しい輩に盗まれちゃったのよ、その筆が。そう、あれは庚申待の日だった。いつもどおり寝ずに過ごそうと思ったの。幽霊で一晩起きてるって本当、退屈なのよ。でもやっぱり、庚申の夜は寝てはいけない。そのしきたりを破るなんてやっぱり嫌。それゆえ古い友や好きだった本のことを思い出して過ごしていたら……、あぁ、今思い出しても恐ろしうこと……』

『そのあとは売り飛ばされて、捨てられて、売り飛ばされて……まぁ、いろいろあって、〈あそこ〉にいた。〈あそこ〉は貴方の〈ガッコウ〉でしょ? よく知らないけれど。それから六十年、だれもわたしを見つけてくれなかった。そんなことは生まれて……いや、死んではじめてよ! ほーーーんとうに退屈だった』

(……呪いって、こんなにお喋りなの?)
『だから〈呪い〉じゃないって言ってるでしょう!?』

 すると隣の彼女は不意に消えたと思いきや、突然バスの天井から逆さ吊りの状態で現れ私を睨みつけた。長すぎる髪が垂れ下がり、青白い顔に浮かぶ開かれた両眼は血走っている。その鬼のような姿に、声を上げそうになるのを、両手でぐっとこらえる。

(だめだ……。これ以上バスに乗っていたら、私が危険人物だと思われる……)

 スクールバッグを乱暴に抱え、私はたまらず停車していたバスから降りてしまった。

   ◇

 海辺の街、「灘街」を、私はのそのそと歩く。
 背後には未だ、うすら寒い〈彼女〉の気配を感じるが、気にせず歩いていく。

『なんで降りちゃうの。もっと乗りたかったのに』

 文句を言ってくる声が聴こえても、無視してどんどん歩く。
 私が降りたバス停は「灘街七丁目」。私が本来降りるバス停は「私鉄灘街駅前」。降りるべきバス停から三つほど手前で、私はバスから降りてしまったみたいだ。

 二十分ほど歩いて、やっと灘街駅を通り過ぎる。
 ホームがひとつしかない無人駅だ。
 乗客は誰もいない。踏切も無い。電車が来る気配もない。
 線路の向こうには海なのか、空なのか、分からないうやむやな境界線が、暑さで陽炎のように揺らいでいる。
 とうに見飽きた、田舎の夏。

『ねぇ、あなたのその髪……、呪いの人形みたいだからやめたほうがいいわ』
「どこがっ。これは三つ編みって言って、あなたは知らないと思いますが、とても真面目な髪型ですから」
『へぇ』
「どっちかっていうと、あなたの髪型のほうが呪いの人形じゃないですか。人形なのに伸び続ける髪、みたいな」

 背後にいる彼女に向かって私は嫌味たらしく言ってやった。
 そして言ってすぐに「しまった」と思う。
 彼女があまりにも饒舌で、小うるさいから、調子に乗って私も軽口をたたいてしまった。幽霊に歯向かったことをすぐさま後悔する。
 もし、彼女が悪霊だったら——と考える私に、内心失笑する。もはや目の前に幽霊がいることを、疑うことすら諦めている。

 とりあえず詫びようと、振り返った先のその白い顔には、意外にも、怒りや恨みのような感情は無く、なぜか私に、微笑みかけていた。

『わたしは、この世を〈呪う〉ために、常世に惑っているわけじゃないの。この世を〈言祝〉するために、わたしは〈その筆〉とともに在るの』

 幽霊の彼女は、私のスクールバックをゆらりと指さした。
「ことほぎ……?」
 彼女の穏やかな声に、顔をしかめながら私は呟く。
『言祝、それは言の葉による祝福』
「……」
『〈呪詛〉がなにものかの魂を損なうものならば、〈言祝〉は、なにものかの魂を満たす言葉』
「じゃあ……、言祝、は、いいこと、ってこと?」
『言祝は、人にできうる所為のなかで——最もうつくしきもの』

 私は立ち止まり、背後にいる幽霊の方を振り返る。
 そこにいる彼女は、幾重もの衣をまとっているのに、汗ひとつ流していない。
 目じりを下げた目元以外を、扇で涼し気に隠している。
 その姿は、明らかに私とは違う次元の存在だった。
 
 どうやら彼女は、この世を恨めしく思っているのではなく、この世を〈褒める〉ために幽霊になったらしい。
 だとしても、私の目の前のそれは、怪奇現象にほかならない。
 筆に体を乗っ取られるなんて怖すぎるし、みんなが見えない聞こえない平安貴族の幽霊が私にだけは見えるなんておかしすぎるし。

 ……おかしすぎる、はずなのに。

「人間にできる……最もうつくしき、もの」

 私の心を支配する戸惑いの他に、それとはまた別の、感情の気配がしていた。
 水に墨をぽたりと落としたように、その別の感情が心に広がっていくのを、止められない。嘘みたいな彼女の言葉を、信じたいと思わせる、名前の分からない感情。

『あす、またあの部屋にいきましょう。あなたとわたしの〈言祝〉が、小さき花を、咲かせているはずだから——』

 私は頷いた。そして、名前のない感情の正体が分かった。
 好奇心だ。
 私は見てみたかった——この醜い世界に、美しいと思えるものが、本当にあるのか。

(続く)


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