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「時間」はあるけどない

一般的には、過去から現在、現在から未来へと時間が流れていると考えられている。
なぜそういう認識になるかというと、過去のこと(昨日、先週、先月など)、そして未来のこと(明日、来週、来月)を覚えている(記憶している)から。
「昨日〇〇をした」、「明日〇〇をする」といった記憶が常にあるから、時系列を持って生きていると思っている。もっと幅を狭めて、「1分前に〇〇をした」、「1分後に〇〇をする」でも同じこと。
しかし、「過去に〇〇をした(あった)」と思っていたとしても、実際にそれがあったかはわからない。
例えば、「この写真は先月撮った」。
これは、一見すると過去があることの証明に思えるかもしれないが、その写真があるのは今。今、目の前にその写真があるだけ。過去にこんな場所に行った、過去に撮ったと思っている、今目の前にある写真。「過去のことが写っている」と「今」思っている写真がある。つまり、過去だとかは関係なく、今「目の前にこれがある」と思っているからある。
今度は未来について考えてみる。「明日〇〇する」。これも、「明日〇〇がある」と「今」思っているだけだし、次の日、本当にそのイベントがあったとしても、その当日の自分からすれば今そのイベントをやっているだけ。
「今」未来のことを体験することはできないし、その未来の日付になった時には、既に「今」である。
総じて、いつでも「今」しかないと言える。
「でもその一瞬があるじゃん?」となりそうだが、その「一瞬」というのも、大抵の場合は時間を伴った話をしてる。それすらもない、静止した状態のことを「今」と言ってる。だから時間はない。
じゃあなぜタイトルに「あるけど」と書いたのかというと、人はそうして時系列を繋げていくことで物事を認知しているから。つまり、「時間」は「認知の都合によって生まれるものである」ということ。別の言い方をすると、「認知になら時間はある」ということ。だから「あるけどない」という説明になる。
そして初めに書いたように、その時間、言い換えて時系列というものは、記憶にある。記憶を基として時間というものを作り出してる。
さらに言えば、認知にしか時間はないのだから、絶対的な時間もまた認知にしかない。
例えば時計。「今何時」って指し示してるやつ。それは、この世界の平均的な時間の流れの度合いを数値化したものであって、つまりは認知の平均値の基準であって、それが個々の人間の絶対の基準なわけじゃない。
しかし、認知とは切っても切り離せないのが人。完全になんの認知もできないということは、世界が存在していないことと同じ。それは生きていないも同然。なので、認知はありつつも、その時間を認知の平均値よりも細かく刻んでいくように過ごすことができるのであれば、前述したような(時間がないと思えるような)、長い時間を過ごすことができるということである。


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