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浄土真宗と被差別民

 今回は浄土真宗について書いてみる。
 私の母方は真宗高田派、そして、私が勤務していた高校と児童養護施設はどちらも真宗大谷派だ。名古屋市の真ん中には真宗大谷派名古屋別院(東別院)と真宗本願寺派名古屋別院(西別院)があるが、どちらも佇まいが素晴らしい。東別院には織田信長に関係する古渡城跡がある。

 仏教の起源をたどれば、古代インドにさかのぼる。およそ2500年前、釈尊仏陀は、生まれによる厳しい身分制度(カースト制)が支配する社会倫理のなかで、「生まれによって賤しい人となるのではない」という決定的な言葉を遺された。ここに身分社会の不平等が、教えによって超えられ、全ての人々が、手を携え、共に生きる仏道が開かれた。この仏道こそが世俗差別社会への批判原理として成り立つものなのだ。

 浄土真宗の宗祖:親鸞聖人の「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」という悪人正機の思想は有名である。いのちを紡ぐためには、「生きものを、ころし、ほふる」こともしなければならなかった人たちがいる。親鸞が生きた時代に「悪人」と呼ばれた人たちを、『歎異抄』では「他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり」と阿弥陀如来の具体的な救済の対象として語っている。厳しい現実の中で、煩い悩む生活者としての深い悲しみを生きる人たちの中に、親鸞は、他力をたのむということの本質を見出し、自らの自覚の言葉として頷き、全ての人が等しく救済される道を明らかにしていった。

 宗教意識の広がりによって、殺生や肉食を良くないこととする考えが広まった。しかし一方で、古代から動物の皮・肉などを手に入れるため、あるいは動物による農作物の被害をくい止めるために狩猟は行われた。仏教説話などには、こうした狩猟民が仏教の教えと出合い、生き物の命を奪っていたことを後悔し、寺院を建立したり出家をする説話も多い。しかしながら、実際に生業として狩猟をしている人びとにとっては生きていくための手段であり、容易にやめることはできなかった。

 中世の人びとは、さまざまな理由で都市や村落などの共同体から流出した貧民を「非人ひにん」と呼んだ。「非人」は、都市や交通の要衝、寺社の門前や困窮者の救済施設である悲田院に集住し、物乞いなどで生活をするようになる。賤視せんし・差別を受けるようになっていった彼らは、次第に境界にあたる坂などに集まり「宿しゅく」「非人宿ひにんじゅく」と呼ばれる集団を形成した。業病・不治の病とされて賤視されていた「癩者らいしゃ」(主としてハンセン病)も「非人」に含まれた。他にも、寺社など「散所さんじょ」と称する年貢のかからない土地に住まわせた「散所非人」や、河原に居住して死牛馬しぎゅうばの処理をするとともに皮革や皮革細工を生産する河原者かわらものもいた。親鸞の生きた時代にはこのような多様な被差別民がいたのである。

 平安から鎌倉時代の史料にしばしばみられる河原者は、河原に居住して、死牛馬の処理をするとともに皮革や皮革細工を生産するため、地域によっては「かわた」などとも呼ばれていた。鎌倉末から南北朝期ころには、「エタ」とも呼ばれるようになっていたが、その頃には河原者を殺生に関わる「悪人」とする考え方があった。

 殺生にたずさわる人を「悪人」と見なす時代にあって、「エタ」と呼ばれた被差別民は人との交際も許されない「悪人」であると厳しい差別を受けていた。『塵袋ちりぶくろ』という辞書には、「イキ物ヲ殺テウル、エタていノ悪人」とあり、こうした人々を、インドの「旃陀羅せんだら」や中国の「屠者としゃ」になぞらえて厳しく批判している。中世の被差別民は、とくに罪深い「悪人」であると認識され、賤視を受けていた。親鸞が生きていた当時は、こうした考え方が一般的だったのだ。

 中世には、狩猟や漁業のような殺生を生業とする人々は「悪人」で、死後は地獄に堕ちるという考えが広まっていた。また、しばしば為政者は、仏教的な考えに基づいて、殺生を禁じたり、漁綱の放棄、放鳥などを命じる法令が出されていた。しかし、中世の社会においては、「悪人」といわれながらも、生きていくために狩猟や漁業に携わらざるを得ない人びとも多い。こうした「悪人」は従来の仏教では、狩猟などをやめないかぎり、救済の対象とはならなかった。

 「」はものの命を奪う漁・猟師、「沽」は商人。当時の仏教の常識では、殺生を職業としている者は「不殺生戒ふせっしょうかい」を犯し、商人は嘘を言って人をたぶらかし、「不妄語戒ふもうごかい」を犯す悪人・下類とみなされていた。ところが、親鸞はそれらを「瓦礫かわらつぶて」として「れふし(漁・猟師)あき人(商人)・さまざまのものは、みな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかひをふたごころなく信楽しんぎょうすれば、摂取のひかりのなかにをさめとられまゐらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまふは、すなはちれふし・あき人などは、いし・かはら・つぶてなんどをよくこがねとなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。」(『唯信鈔文意』)とわれらを含めて黄金のごとく尊厳なものにかえなすのが阿弥陀如来の本願なのだと説いた。

 江戸時代、寺院はキリスト教徒取締のための宗門人別改にんべつあらため、制度を担い、寺檀制度が成立した。身分制度にもとづく幕府の民衆支配・統制の一角を担ったのである。それにともない、東西本願寺も身分制社会を反映した制度を作り上げていた。「東派浄土真宗一派階級之次第」は「穢多寺(江戸時代に被差別部落の住民が檀家としていた寺院の呼称)」の大谷派における初出資料であるが、ここには、それを「別種」のものとし、また「外交り之ナシ」「本山ニオイテ剃刀コレナシ」としている。本願寺派では、被差別部落の寺院を別帳にした「穢寺えじ帳」という名簿を作成したり、寺院が本山に物事を願い出る時の申請料である冥加金が、一般寺院より被差別部落寺院は五割増であった(『諸事心得之記』)。また教学を学ぶ研修機関である学林に被差別部落寺院の僧侶が何年在籍しても上級へ進めない懸籍制度など、部落寺院に対する差別的な制度があった。資料には「院家いんげ」という言葉と「穢多寺」という言葉が対比されていることから、部落差別の問題と天皇制の関係を読み取ることができる。

 本来のごう思想とは人間を解放していくはずのものであるが、差別を受ける人々に、この世の苦しみは自身の前世の行いが悪かった宿業によるものとあきらめさせ、この世で念仏をたのむなら来世は必ず苦しみを逃れた平等の浄土に生まれ変わることができると寺院の布教などにおいて説き、現実の差別を容認・肯定した。さらに嘉永元(1848)年、高知の寺院での蓮如上人三百五十回御遠忌の布教において、「信仰の篤い被差別民は来世は一般の身分に生まれてくると教化した」という記録がある。

 1922年3月、自主的解放を目指した部落民衆によって全国水平社が創立された。全国水平社創立の際に可決された、いわゆる「水平社宣言」には「悪人正機」を説いた親鸞の思想も大きな影響を与えていた。しかし親鸞の教えを引き継ぐ東西本願寺などは、正面から部落差別に取り組もうとしなかった。そこで全国水平社は、部落問題に取り組むよう東西本願寺に強く働きかけた。

 真宗大谷派は、水平社創立当初から、被差別部落のご門徒から、教団の差別土壌、次々に惹き起こす差別事件に対して厳しい糾弾・問題提起を受けてきた。それは、本願寺教団との深いつながりを基底にした、差別・被差別に対する深い悲しみと「親鸞に帰れ」という大きな願いから発せられるものであった。大谷派における解放運動は、これらの問いかけに向き合い、自らを親鸞の教えに照らし、そこから、この時代、この社会の中で、人間と人間が水平に出会える世界、非戦平和が実現する世界、すなわち「同朋どうぼう社会」の顕現に向けて、一人ひとりが歩みだす運動である。

 近いうちに熱心な真宗門徒であった小林一茶についての記事を書くつもりだ。実は小林一茶も被差別民に温かな眼差しを向けていた人なのだ。

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合同会社Uluru(ウルル) 山田勝己
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