『暇と退屈の倫理学』と僕が生きる"目的"
僕は、人生に使命感を持って生きていきたかった。
自分の人生の使命が自分の中ではっきりしていないと、何を目指したら良いのかがわからず不安になる。
だから、ずっと、アンパンマンのマーチではないが「私は何のために生まれたのか?」という問いを自問自答し続けてきた。
大学生になって、将来何をしたいかという問いに答えられないプレッシャーが年々大きく膨らんでいく。
研究室選びにしてもそうだ。別に物流にも環境にもエネルギーにも使命感を感じるほどのモチベーションは湧いてこなかった。
教育格差?貧困問題?原発問題?憲法改正?
本当に申し訳ないが、悪い意味で私は色々な社会問題を机上でしか学んで来なかった。
社会に全く出てこなかった私は、ある業界と直接的に関わった経験もなければ(多くの大学生に社会人の経験はないだろう)、大きい社会問題に直接自分が悩まされたこともない(自分って恵まれているなあ)。
「この業界をより良くしたい!」
「この社会問題を解決したい!」
とぼくは当事者意識を持って使命感に燃えることができないのだ。
でも、多くの大学生なんてそんなもんではないのか?
でも僕は自分の性格上、「自分がやるべきだ」と納得できないことはあまりやりたくないのだ。
以前書いた記事でも述べたように僕は人生で「損切り」をしたくないという気持ちを結構強く持っている。
だから、東大に入ってから学んできた「AI」や「ビジネス」の知識を将来のキャリアにも活かしたいと思っていた。
別に「AI」自体に興味があるというよりは「AI」を使って何かをしたいと僕は考えていたので、今流行している「AI」を使って「ビジネス」の知識を活かし起業するという将来のビジョンを漠然と抱いていた。
しかし、これでは到底"ビジョン"ということはできない。
このビジョンでは僕の人生の"目的"が全く述べられていないのだ。
そこにあるのは、「AI」や「起業」という"手段"だけ。
「AI」を利用して何を成し遂げたいのか?
「起業」して何を成し遂げたいのか?
そこには全く"目的"がない。
だからそんなビジョンとも言えないビジョンを持っていたところで、自分の将来を覆うモヤモヤは取り払われることはありえない。
そう、僕は色々な業界や社会問題に対してあまり直接的に関わった経験がないため、そこにはっきりとした「当事者意識」や「目的意識」を持ったことがないのだ。
昔から内省をずっとし続けてきた。だから外に目を向ける暇がなかったのかもしれない。
内省をした結果、外界に触れなすぎて、その結果として自分への「何のために生まれたのか?」という質問に答えられない。
問いだけを見て他のことを見なかった結果その問いに回答できない。
あまりにも馬鹿馬鹿しいな。
ただ、僕は自分という"個人"に関しては他の人よりもかなり考えてきたと自信を持って言える。
それこそ今年の夏は、僕にとって"大内省祭り"だった。このnoteに文章として自分の内面を書き連ねて分析していく中で、自分がどのような存在なのかが確かに以前よりも解像度高く見えてきたのだ。
「自分にとって幸せとは何か」とかそういうことが少しずつわかってきたのである。
そんな中で、『暇と退屈の倫理学』を読んだ。衝撃的な出会いだった。
僕はこの本を通して、「自分が生きる意義」をより解像度高く認識することができるようになった。
この本は、タイトル通り「暇と退屈」についての議論を軸に、"人間"について深く考えるものである。
ただし、この記事で詳しく内容を深ぼったりはしない。
哲学的にものを考える本の内容を、議論を端折って紹介してもそこに残るものは何もないと言っても過言ではない。
なので、ぜひあなたの手で通読してください。
後から考えてみれば、この本が僕に大きな影響を与えたのも納得ができる。僕が一番興味を持っていたサービス産業(人々の生活を豊かにし、満足感を高めるための無形のサービスを提供する産業)は、言うなれば退屈な気持ちにならないための"気晴らし産業"であるからだ。
僕は色々な業界や社会問題に対して当事者意識や目的意識を持っていない代わりに、「自分という一消費者いや、一浪費者が人生をどう生きれば幸せになれるのか」という問いに対してはものすごく強烈なそれこそ当事者意識や目的意識を持っていたことに気づいたのである。
なるほど、ある業界に対してアプローチするのではなくて
「一般の一浪費者一浪費者が幸せに生きることのできる世界を作る」
のが僕の人生の使命なのかもしれないと『暇と退屈の倫理学』は僕に思わせてくれた。國分先生には感謝しかない。
『暇と退屈の倫理学』の中の國分先生の言葉を借りるなら、<人間であること>を楽しみ、<動物になること>を待ち構えることで、どうしても退屈してしまう人間の生と向き合うことが誰でもしやすくする世の中を作る
つまり、それは「人々が生活の中で”価値”に日常的に触れるようになる世界」のことである。
現在のサービス産業は、世間に"もの"ではなく"観念"を消費させている。
それをまた人間が"もの"を"浪費"できるような世界にしたいのだ。
そのように、人生の"目的"に対する解像度が上がったとき、僕が研究することや何を目的に起業するかは自ずと定まってくる。
それは何でもいいが、次のアプローチがありそうだ。
日常で"価値"に触れることのできるサービス(モリスの構想とか)
日常を違う環世界から体験できるサービス(日常空間で行われる謎解きやスタンプラリーとか)
非日常空間を体験できるサービス(テーマパークとか)
体験価値を高めるサービス(2や3のサービスをより多くの人に楽しんでもらえるようにする)
例えば
"体験価値を再定義し、それを定量化できるモデルを構築することで新たなサービス構築の仕方を考える"
ことであったり、、、
まあ何でもいいのだ。
何をするにしてもそこには一貫した信念があるから。