外国人に生け花を(8)
なぜ生け花か?
海外でもっと多くの方々に生け花を楽しんでいただきたい。
そんな思いを共有してくださる方は多いと思います。
しかし、なぜか?
生け花にどんな価値があるの?
という、その根拠については様々な意見があることでしょう。
親善のため、文化紹介のため等々。
生け花の価値
私の場合、生け花は癒し、あるいは心理療法的な効果があるから、もっときちんと多くの方々に受け入れていただきたい、というのがひとつ。
そして、もうひとつは生け花は、自然観の変容をもたらし得るので、その点において環境芸術のひとつとして存立できるから、もっと多くの方に受け入れていただきたいということがあります。
この2つですが、どちらも実証していくのは、とても困難な作業です。実証しないかぎり問題にされませんから。
その困難については、あれこれといろいろな機会にお話ししていますし、これからも発信し続けるつもりです。
海外における生け花の惨状
現在、海外における生け花は、多くの場合、ひどい状態なのです。私が認める生け花の価値、素晴らしさが、全く無視され、踏みにじられているようにさえ感じます。
生け花の将来について一緒に考えませんかと言いたいところですが、そんな声はなかなか届かないようです。生け花にはもっと多くの人を幸せにできる可能性があるのです。現代社会の諸問題、社会問題や環境問題やらに貢献できる可能性もあるかもしれない。
ここまでくると、スケールが大きすぎて、ついていけないということになるでしょうか。
となると、孤軍奮闘せざるを得ないのでしょうか。
しかし、華道の歴史を振り返れば、そうとも限りません。注目したい方があります。
山根翠堂という華道思想家
自由花運動を主導した山根翠堂(1893−1966)は、生け花の将来を、誠実に、私心を離れて考えておられた方だったのではないかと思います。生け花は芸術だと主張された華道家です。その彼の芸術の定義をきちんと踏まえると、それはそのまま、私が上にあげた2つの重要な生け花の価値を裏付ける論拠となっているように思います。
「芸術」の定義は様々で、時代とともにも変わっていきます。例えば、村上隆の作品。現代芸術の最先端の一つでしょうが、100年前でしたら、美術館に飾られることなどなかったでしょう。
生け花は芸術だという主張はよく聞かれますが、多くの場合、全く中身がない。勘違いの元ですから芸術などとおっしゃらない方がいいでしょう。学術的にきちんと考えていらっしゃる方は、安易に「生け花は芸術だ」などと発言しません。
ただ、山根翠堂の生け花芸術論は、「現在、求められている生け花」への提言ではないかと思います。
では、山根翠堂の生け花芸術論のどこが面白いのか?
国際いけ花学会の学術誌、「いけ花文化研究」に以下の小論文を掲載していただきましたので、ご参照ください。無料の記事です。
「いけ花と環境倫理」