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外国人に生け花を(9):無我の生け花

外国人の生け花

外国人の作る生け花の多くには、独特ものがある、と感じてきました。もちろん、全ての作品において、ではありませんが。

この独特のものは何だろう?

それは、時に不協和音のようにうるさく感じられます。花が花であろうとすることを邪魔しているようにも感じられます。

俳句と川柳

最近、「古池や蛙とびこむ水の音」という有名な句についての解説で、「優れた俳句は無我の境地を目指している」という話を聞き、とても面白いと思いました。

この句は英訳がとても難しいそうです。私もいくつか英訳を読んだことがありますが、「浅い」と感じることが多いです。

An old pond—
A frog leaps in,
The sound of water.

日本語の俳句が伝える静けさは、心の奥深くにある悠久の静けさに触れるものです。大自然の持つ本質の一面に触れるような感覚があります。それがこの句の主題でしょう。ここに作者はいません。作者がどう感じたかなどということではなく、自然の深い静謐、それだけが主題なのです。優れた俳句は無我の境地を目指している、とはそういうことだと思います。

それに対し、川柳は「こんな面白いこと見つけたよ」というような、人や社会に対する作者の感情、意見、態度などが現れてくることが多いように思います。我の表現です。

不協和音の正体

この無我を目指す俳句と我の表現としての川柳の違い、この違いこそ、外国人の作る生け花の多くに感じる不協和音の正体ではないかと思います。

つまり、いい生け花はいい俳句と同様、無我の境地を表そうとしているのではないでしょうか。それに対し、人為というか作者の意図や態度が現れすぎる生け花作品は川柳と同様の境地の表現となるでしょう。

無我を求める立場からすると、我の表出はうるさく感じられるのです。

問題は、この違いを外国人の多くに理解してもらっていない、ということだと思います。

無我の生け花の行方

しかし、無我の生け花がさほど評価されないという現実もあります。ことに国外においては、我の表現である生け花の方が個性的であるなどと面白がられるということもあるわけです。

ですから、このシリーズで何度か書いてきたことですが、海外における川柳的な生け花は、本来の俳句的な生け花とは別のジャンルであるという区別をするというのもひとつの行き方かもしれません。

両者が混在している現状はどちらの立場の作者にとっても不都合なことが多いのです。

続いて、無我の生け花についての考察をもう少し深め、生け花の稽古論、守破離の階梯についても考えてみようと思います。


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