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いけばなって何?(3)

本当のイントロダクション(前書き)


オーストラリアで生け花を教えて、30年くらいになります。外国人に生け花を教えるのは難しい、とよく思います。おまけに、生け花って何ですか?と尋ねれられても、なかなか容易には答えられないでいます。

海外で生け花をどう紹介し、どう教えていくか?

その課題への試みのあれこれをここで書いていこうと思います。フラストレーション発散の場にならないようにとは思いますが、「なぜ、海外で生け花を教えることはこうも難しいのか?」という問題は、私には苦労を要する難問でして、つい言葉がキツくなることもあるかも知れません。まあ、ご容赦ください。

前回前々回で話したかったことは、「どうも生け花の根本のところを、多くの外国人に分かってもらっていないのではないか」ということ。その根本とは、日本人特有の自然との関わり方ではないか、ということでした。

それが、「なぜ、海外で生け花を教えることはこうも難しいのか?」という疑問への私なりのひとつの「結論」でもあります。 

生け花とは何を表すのか

前回前々回の話の要点を軽くおさらいしておきましょう。少しわかりにくかったかもしれませんので。フラワーアレンジメントとは異なり、生け花では「人為的に精錬された自然」を表現している、また、日本庭園でも、同様に、そのような自然との関わり方をしてるようだ、ということでした。

ここで勅使河原宏の日本庭園についての言葉を紹介しましょう。核心をついていながら、わかりやすい表現になっていると思いますので。

「巧まざる秩序とでもいうか、自然というものをよく知り、よく読みこんだ上で人工の自然を作り出しているのです。それは自然を人間の作った構図にあてはめるのではなく、自然の力に添って別の自然を表現していこうという美意識だと言ってもいいでしょう」(勅使河原宏「私の茶道発見:日本の美の原点とは」光文社)

前回のカールソンの日本庭園への洞察を思い出してください。「人為を自然に従わせているという意味で、自然の導きに従って調和を実現している。自然の本質を強調するような自然の理想体を作ろうという人為が働いている」

そっくりですね。「人為的に精錬された自然」と私はとりあえず表現してみたのですが、宏は「人工の自然」、「別の自然」とシンプルです。そして、的確です。

生け花でも目指しているのは、人工の自然なのです。重点は人工ではなく、深い意味を持った「自然」ということです。

今後の展開

今後の展開ですが、まず、上述の「どうも生け花の根本には、日本人特有の自然との関わり方があるのではないか。それは日本人には当たり前すぎて意識さえしていないレベルのことでありながら、外国人には容易に体得できないものなのではないか」という「結論」に至るまでの試行錯誤のあれこれを紹介していきます。

  1. 外国人に生け花を教える難しさをめぐる試行錯誤

どうして外国人に生け花を教えるのはこうも難しいのだろう?その原因は自分の指導力不足か、生徒の学習態度に問題があるのか、教材が不適なのか、などなど考えてきたのですが、その過程を紹介したいと思います。

2.「専応口伝」をめぐる試行錯誤

そして、上述の結論に至るまでのもうひとつの試行錯誤、それは「専応口伝」の自分なりの解釈を中心とする考察でした。その過程で、生け花500年の歴史をも、ぼんやり考えていくことにもなりました。この論考の到着点のひとつは日本語で読むことができます。

専応口伝』における「面かげ」の形而上学

続いて、以上の試行錯誤のあれこれを踏まえて、現在、どのようなチャレンジを試みているのかを紹介します。

3. 私の現在の活動について

「海外で生け花をどう紹介し、どう教えていくか?」と理論的に考えてきたことを、実践的に試してみたく、「メルボルン生け花フェスティバル」を企画、開催しています。公的なスポンサーもない状態で、よくやっていますね。実は、スタッフが素晴らしいのです。よくぞ、これほどの方々が集まってくれました。

さらに、同様の主旨で始めたオンライン講座「生け花道場」についても紹介できれば、と思います。

以上、「いけばなって何?()、()、(3)」が、イントロダクションになっています。最初のイントロダクションで結論を書いてしまっていますが、次回以降、この結論に至るまでの話が、本題というか本論となります。よければお付き合いください。

付記:勅使河原宏について

上記に勅使河原宏の著書をいきなり引用しました。80年代の最後年、私は生け花の初心者でしたが、宏の家元教室で生け花を学んでいました。その教室は、生徒数5、6人の小さなクラスでした。100人ほど収容できる大教室で、国際的に活躍する家元から、この少人数で学べるのですからありがたいことです。しかし、私はあまりに初級であったため、その機会を十分に生かし切れたのか疑問です。他の先輩方の中で、特に爽やかで、礼儀正しく、毎度奇抜な作品を作っておられた方が、仮屋崎省吾さんで、その後、大変活躍されていると伺っています。

教室での宏家元は口数少なく、近寄りがたい雰囲気がありました。しかし、彼の「私の茶道発見:日本の美の原点とは」や「古田織部ー桃山の茶碗に前衛を見た」(日本放送出版協会)を読むと、この方は情熱の塊のような一途な方だったのだなと、改めてお会いできたような感じがしました。両書とも名著です。

私の美術修士論文のひとつの章は勅使河原宏についてでした。国際いけ花学会の学術誌「いけ花文化研究」創刊号にも収録していただきました。

2013 Hiroshi Teshigahara in the Expanded Field of Ikebana, The International Journal of Ikebana Studies, 1, p.31-52.

宏最後の作品群に用いられたグリッド(格子模様)の意味をきちんと考えた論考は他にあまりないのではないかと思います。しかし、随分以前に書いたものなので、できればアップデートして日本語でも「勅使河原宏論」を発表したいと希望しています。私の著作はほとんどが英文ですので、今後、日本語でもあれこれ書いていきたいと思っています。


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