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2024/2/9

東京は雪が降り、少し寒さは和らいだのかしらね。
それでか、今日はお客さんがどなたもおりませんでした。少し早いですが、閉めちゃいます。

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今日、仕事の合間に同僚と会話した。彼は、恋人はいない、といった。欲しい?と聞くと、いらないという。付き合っていた彼女から30歳が近づいた途端に結婚を仄めかされたので断ったという。

本屋を開けるときは会社帰りに下北沢から歩いて来ることにしている。ボーナストラックを通ってどこかの店で夕飯でも食べようかと思うが結局はどこにも寄らない。下北沢から世田谷代田までのほうが植物が植わっているという意味では自然だが、”一夜”にしてできたという意味では人工で、環七からこっちの住宅街は一つ一つの独立した生命が交錯し蓄積していると感じる。

本屋では、たまたま手に取ったチェーホフの「ヴェーロチカ」を読んだ。統計学者のオグニョフはもうすぐ30だが女性経験がない。夏の間は数週間にわたり地方をめぐって研究資料を収集し、同じ町には二度と訪れない。ヴェーロチカ(ヴェーラ)はオグニョフが滞在した村の名士の家の娘で、シーンは10日間の滞在の最後の夜から始まる。オグニョフが家を去ろうとすると、ヴェーラが森はずれまで送るという。森を抜けるとヴェーラはオグニョフに・・・

愛を告白するヴェーラはあやしいまでに美しく、雄弁でひたむきだったが、彼が感じていたのは、歓喜でも彼が望んでいた生の喜びでもなく、ヴェーラに対する同情であり、彼のせいで一人の立派な人間が苦しんでいる、その痛みと無念さにほかならなかった。はたして彼のなかの、さかしらな本の知識がしゃしゃり出てきたのか、あるいは、しばしば生きることを妨げる度しがたい客観主義への習性が顔をだしたのか、それはわからない。だがいずれにせよ、ヴェーラの歓喜と苦悩には取って付けたような不自然さが感じられた。と同時に、彼のなかでそれに反抗する感情がむくむくとわき起こり、今目にし耳にしていることは、自然の摂理と個人の仕合わせから見れば、どれもどんな統計や本や真理にもまして遥かに真剣なものなのだと告げていた・・・・.。それで彼は自分に腹を立て、自分を責めた。とはいえ、いったい自分のどこに非があるのかは理解できなかった。
その後ろめたさを決定づけるように、彼は断じて自分が言うべき言葉を知らなかった。だが、何か言わなければならないことは歴然としていた。ずばり〈私はあなたを愛していません〉とは、とても言えなかった。かと言って、〈好きです〉とも、彼は言えなかった。いくら心のなかを探ってみても、閃光のひとつすら見出せないのだ......。

チェーホフ「ヴェーロチカ」

さて、国木田独歩は「武蔵野」の中で、ツルゲーネフの自然描写を引いて「これは露西亜の野であるが、我武蔵野の野の光景もおよそこんなものである」という。

武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向く方へゆけば必ず其処に見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある

武蔵野の路はこれとは異り、相逢わんとて往くとても逢いそこね、相避けんとて歩むも林の回り角で突然出逢う事があろう。

国木田独歩「武蔵野」

どうも一筋の言葉には撚り合わせられない、ごろっとした気持ちになる偶然の日でした。


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