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10年以上前に記した、AIに関する未来予測

2025年になりました。今年も宜しくお願い致します。

さて本年最初の投稿は、未来予測はいかに当たらないか。お恥ずかしながら筆者の実例をお示しします。

この文章は、約12年前の2012年12月に書かれたものです。2012年といえば、Googleの猫で有名なディープラーニングが発表された年。機械学習の界隈では明らかな変化が感じられている一方で、社会では大きな話題になっていませんでした。そんな中、筆者は技術的にはAIの興隆を予想しましたが、人々にはもっと否定的に受け止められると思っていました。いまとなってはかなり外した内容ですが、外れた未来予測特有の面白さがあるかもしれないと思い公開します。




古来より,見聞きしたものを諳んじ詳細に渡り滔々と再現する記憶力は,知性の極みとして人々の尊敬を集めてきた.驚くほど大きな桁の暗算を瞬時に行い,何カ国もの言語を解し,どんな問いにも澱みなく答えられる頭脳は,人々の驚嘆と憧れの的であり,努力の先にあって一部の人間に限られる天賦の才であった.

しかしそういった能力の一部は,既にありふれたものになっている.人間の一生の経験を全て動画に記録しても 20 テラバイトに満たず,スーパーコンピュータが 1 秒間に計算する回数は人間が生涯可能な計算数を大きく凌駕する.今や数十カ国語への翻訳が機械的に可能であり,膨大な蔵書からの検索が一瞬でできるばかりでなく,クイズ王が TV 番組でコンピュータに屈する時代となりつつある.

産業革命の折には,職人の能力を大きく超えた機械の発明に脅威を感じ,それらに対する排斥や破壊の運動が興った.大きさも持久力も集中力も,生きている物とは比べ物にならない能力を有するライバル,壊れこそすれ決して雇用者に不満を抱かない無機物の同僚に,不気味さと怖れと怒りを感じるのは想像に難くない.それは,何年もの時間を掛けて,根を詰め技術を研き経験を重ねてきた職人に降りかかる,不条理の極みだからだ.

不条理とは絶えず外部からやってくるものだ.人間は,個々人の人生においても,歴史的な営みでも,不条理を否定し,拒否し,それでも避けられない場合には徐々に順応してきた.しかし,それが人間自ら生み出したものであり,しかも人間としての尊厳を耐え難いほどに傷つけ,何代も掛けて積み上げてきた伝統を一瞬にして突き崩すようなものであった場合ですら,たった数世代の期間で受け入れることが可能なのだろうか.

だが既に我々は,工場に無数の機械を受け入れ,コンピュータに計画されたスケジュールに従い,かつて苦々しく思っていたはずのソフトウェアの新バージョンを心待ちにしている.これで自分たちの労働が軽減されるのだ.

この不気味さと反発が必要悪に転じ,やがて人類に資するように捉えられる価値観の変化は,自然なものなのだろうか? 新奇なものに見えること,不気味であると感じること,脅威であると感じること.これらは,慣れの一言で収束し,役に立つものはやがて受け入れられていくのだろうか?

文字というものが発明されて以降,それまで口伝で伝えられていた物語は,一部の人間にしか理解できない怪しげな記号によって土の板に書き留められるようになった.この不気味さ,新奇さは想像に余る.人間が言語記憶の保存先を脳の外に初めて保持した体験は,まさに人間のアイデンティティを揺るがす衝撃があったのではないだろうか.

やがて手紙という形が一般的になったとき,それまでは会って話すというコミュニケーションしか存在しなかった世界に,遠くの人間と情報交換する手段が提供された.目の前にいる相手ではなく,想像し,先回りし,簡単に誤解を与え,遮ろうとも遮れない,取り消すこともできない,既に書かれた言葉の繋がり.この不自然なコミュニケーションですら,しかし徐々に定着したのだった.

いま我々が目にしつつあるテクノロジーは,人工知能と呼ばれている.極めて人間と対立的な,挑戦的な名称だ.その尖ったような敵対性やギラつくような非人間性は,共存よりも競争を呼び掛けている気がしてならない.エネルギーが絶たれるまで決して集中力を切らすことなく,貪欲かつ正確な記憶と絶対にミスのない演算手順を有し,どんな従順な飼い犬よりも卑屈に人間の言うことを聞き,既に幾許かのホワイトカラーの仕事を奪いつつある.このようなテクノロジーに,我々が歩み寄る必要はあるのだろうか.

足元を見れば,我々は既に過去の哲人たちよりも多くの知識を扱うことができ,世界の最先端の質問に対する答えを得られる生活を送っている.データを流し込むだけで新聞記事が生成され,症状を訴えると疾患の可能性が解析され,地球の100年先の気温すら予測することができるのだ.

しかしそれでも,我々が人工知能を嬉々として受け入れ,科学の成果を礼賛し,いつか人工知能万歳と叫ぶ日は来ないだろう.かつての機械のように,一部の人間のみの利益となり,他の多くの人々の生活と何より尊厳を脅かす限りにおいて,ひっそりと片隅で必要悪のレッテルを貼られ,半導体とアルゴリズムの発展を足掛かりとしつつ,地球上の輝かしい生物たちの陰で不断の進化を遂げ続けるだろう.

そうして人工知能は,恐らくはその容貌と名前を変えて,いつか我々の生活に入り込む.気づかれないような形で記憶力を,思考力や判断力を増強し,そっと我々の意思決定や想像力を後押しするようになる.あるいは有能なアシスタントとして,信頼できる友として,もしかすると知性だけではなく感情すら繋がりうるパートナーとして,バーチャルな人格が人類に受け入れられる日が来るかもしれない.

文字が記憶を外部化し,手紙がコミュニケーションを同時性から解放し,機械が人間の筋力と体力を補ったとき,生物種は同じであっても,もはや我々は昔の人間とは異なる存在となった.そしてその次の変化は,またも敵対と排斥の後に緩やかに受け入れられていき,今は我々がアイデンティティと感じている能力の一部を外部化するだろう.もしかするとこの変化は,後世から振り返れば,人間をより人間的にした進歩だったと言われる可能性すらある.

歴史と共に明らかになる,人間の外部化できない特性.否定の否定で磨かれる本質.テクノロジーとは,人間という概念を深化させるモティーフでもあるのだ.

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