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不可能な翻訳? DXカタカナ語問題

世界には翻訳できない言葉が存在する

翻訳できない世界のことば』という書籍をご存じでしょうか。文字通り、その言語でしかうまく言い表せないような言葉が集められていて、全ページにイラストの入った可愛らしい本です。パラパラとめくると、“Pålegg (ポーレッグ)” はノルウェー語で「パンに乗せたり挟んだりして食べるもの全て」を意味するとあります。肉もチーズもレタスもジャムもポーレッグ。タガログ語の “Kilig (キリグ)” は「お腹の中に蝶が舞っている気分」。嬉しいことがあったときに、頭というより体からわくわくする感覚が湧き起る。日本語からは “木漏れ日” が選ばれていますが、確かに「木々の葉のすきまから射す日の光」と説明されても、それだけでは平和でポジティブな感覚は表現できていない気がします。

翻訳の難しさといえば、昔は圧倒的に大変だったようです。『ターヘル・アナトミア』を訳した杉田玄白は、言葉を置き換えるのに3つのパターンがあると論じています。「翻訳」とは、訳すお互いの言語にあらかじめ言葉があって、それを結び付けること。例えばオランダ語の「ベンデレン」は日本語の「骨」という具合です。次が「義訳」。カラカベンという言葉は、カラカはネズミが何かをかじる音を示し、ベンは骨。ということは骨より軟らかいという意味と解釈して「軟骨」という言葉を考案しました。最後が「直訳」。これは現代の直訳という言葉とは異なり、意味が取れないのでそのまま音を充てることです。「キリイル」という言葉をどう訳していいか分からず、音をそのままに「機里爾」としたと言われています。

カタカナ語も訳したいと思うけど

ところで、よく“意識高い系”を揶揄するときにカタカナの連発が挙げられますよね。いま「パラダイムシフトによってインフルエンサーの効果のエビデンスを取ることがイシューとなった」という文章があったとしましょう。これを分かりやすいように、かな漢字のみに訳したい。

簡単そうなところから行くと、「イシュー」は問題や課題としてもいいですが、そうするとネガティブな意味を含みそうなので、論点とでも訳すのでしょうか。しかし論点というと評論家っぽくなって主体性を欠くので、これも正しいニュアンスではないかもしれません。

「インフルエンサー」を一言で表すのが難しいのはお分かりいただけるでしょう。影響力のある人のことですが、一般に政治家やテレビタレントのような人を含まず、主としてSNSでその力を発揮している人物に用います。

「エビデンス」を証拠あるいは根拠と訳すると、大きな誤解を生じます。エビデンスはデータを集めた証拠であって、専門家の意見など主観的・個人的な見方を可能な限り省いた根拠を意味するからです。Evidence-based Medicineといえば、様々な研究者が客観的なデータを集めた知見を意味します。生物の複雑さは人間の理解を超えているため、理屈を積み上げた三段論法だけでは薬は効かないからです。

「パラダイム」というのは、元は科学哲学の概念で、その時代の多くの人々が持っている常識的な物の見方を意味します。パラダイムが強固なときは、その説を肯定するような知見が次々と得られますが、その分野の研究が段々と煮詰まってくると、些細だと思われてきた例外が着目されるようになり、次第に新説が提唱されるようになります。それが検証され定着することによって、新たなパラダイムにシフトするのです。

以上を全て取り入れるなら、先の「パラダイムシフトによってインフルエンサーの効果のエビデンスを取ることがイシューとなった」は「今まで常識だと思って疑っていなかったが、最近は新しいものの見方が広まってきた。SNSなどで影響力のある人が発信した情報であっても、効果をデータで計測し、定量的な評価をすべきという考えだ。これを我々も議論せねばならない」とでもするのでしょう。もはや訳でも何でもなく、ただの冗長な解説になってしまっています。

こうやって見てみると、カタカナ語をかな漢字に直そうと思っても、杉田玄白のいうところの「翻訳」は、相当する言葉がないので不可能。「義訳」として新たに言葉を作ってもいいですが、例えば“パラダイム”に、その時代の常識的な物の見方という意味で“時宜支配観”という訳語を充てたとして、何か便利になるかといえばそうでもないでしょう。その訳語が十分に普及しない限り、訳前と訳後の2つの単語を覚える必要があって手間が増えるばかりです。「直訳」に関しては、他の言葉をカタカナとして読むことですから、既に行っているといえます。

つまり、カタカナとはいえ曲がりなりにも日本語になっている言葉を訳すのは、なかなか難しいということです。昔ある大学教授に「サイエンスに対するインタレストをキープしてほしい」と言われたときは、さすがに「科学に対する興味を持ち続けてほしい」でいいのではないかと思いました。しかし、もともときれいな対応関係がない異分野の言葉の場合には、訳出できないのです。

言葉が通じないのは、所属してきた集団が違うから

言葉が理解できないというのは、言葉に厳密な定義が存在するにも関わらずそれを知らないか、あるいはその言葉が利用者の間で使われているニュアンスを体得していないかです。科学などごく少数のコミュニティを除けば、全ての言葉の定義がどこかに載っているようなことはなく、大抵は後者でしょう。これは身も蓋もない話をしています。その言葉を理解したければ、その言葉が使われているコミュニティに入りなさいということだからです。

まさにここが、DX専門家と伝統的企業の所属員で話が合わない理由の核心なのです。

異なるコミュニティの中で仕事や勉強をしてきた人々が、いざ出会ってもお互いの言葉が分かるはずがありません。表面的に言葉を聞けたとしても、そのニュアンスが分かるはずがないのです。“木漏れ日” と聞いて「木々の葉のすきまから射す日の光」と理解した外国人が、そのキラキラとして何かいいことが起こりそうな空気を感じられるようになるには、少なくとも日本の気候や植生を体得しないといけないでしょう。野生動物の喧騒が絶えない常夏のジャングルで、スコールが止んで日が差したずぶ濡れの蒸し暑さのなか、木々の葉のすきまから日が射したときに、日本語ネイティブな話者がそれを木漏れ日と表現するかは疑わしい。まさにその同じ意味で、ITの専門家が「アーキテクチャ」と言ったとき、あるいは製造部長が「生産計画」と言ったときに何を感じているかという話をしているのです。


翻訳の難しさはあらゆる言語、あらゆる文化、あらゆるコミュニティの間に存在しています。DXに限ったことではありません。DXで翻訳の問題が表面化しやすいのは、外部採用にせよ社外の専門家にせよ、異分野の専門家とのコミュニケーションの機会が多いからでしょう。それとデジタルでは、全社横断的な観点での活動が求められることもあるかもしれません。

本稿でお伝えしたかったことは、翻訳の本質的な難しさです。

そういえば、異分野と交流し抽象性の高い概念を操れるようになることが、人間の知性の進歩を生んでいるという説もあります。そのくらい、異分野に触れるというのは知性の本質に迫ることなのかもしれません。近年の経営課題にいつも挙げられるイノベーションは、異なる概念の新結合ですが、これも近いと思っています。イノベーションを起こせるという前提の戦略が現実離れしているように、翻訳が可能という前提でDXを進めることも避けなくてはならないのではないでしょうか。

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