ビジョンもパーパスも不要? ルメルト『戦略の要諦』を読んでの雑感
少し前にルメルトの『戦略の要諦』を読みました。非常に考えさせられます。
経営学において、戦略を定義するコンセンサスが取れないことは知っていました。ですがここまで徹底的に、可能なことにフォーカスした議論は記憶にありません。徹底的なリアリズムです。
戦略を課題から始める
ルメルトの興味深いところは、戦略の議論を課題から始めるところです。
課題を洗い出し、優先順位を決め、解決への道筋を検討し、その結果として目標が定まります。徹頭徹尾ふわふわしたことは論じません。パーパスもポエムもありません。あるのは、アクションのための現実的なプランのみです。
これはアンチテーゼなのでしょうか? MVV (ミッション・ビジョン・バリュー) やパーパス経営といった流行に対する警告なのでしょうか。
そうかもしれません。ですが、ルメルトのような大物なら近年の流行りなど気にしていないかもしれません。
たぶんポイントなのは、パーパスやMVVから計画が立てられるのか、それらなしに経営課題の優先度が決められるのかの2点でしょう。
パーパスだけからは戦略は生まれない
そもそもパーパスが必要なのは、正解がない時代への回答なのだと筆者は思っています。株主を重視するのか、顧客を重視するのか。社会課題をどう考えるのか。技術とセールスのどちらを大切にするのか。どれも妥当であり、価値があります。だからこそ、迷ったときの拠り所として、新しい取り組みへの指針として、同じ志を持った人々が集う旗印としてパーパスが必要なのです。
一方で、パーパスは抽象度の高いもので、他社と似たものになりがちです。ですから、パーパスからただちに戦略が生み出されるとすれば、同業の企業はどこも似た内容になってしまい、競争戦略は機能しないでしょう。したがって、パーパスがあれば戦略立案が自動的に可能な訳ではないのは自明です。
ビジョンに正面から向かう戦略は凡庸になりがち
ではビジョンはどうでしょう。ビジョンは将来ありたい姿を描くものです。筆者もよく触れるバックキャストの議論では、経済や社会などの将来予測から会社のありたい姿を想像します。その姿と、現在の姿とのギャップを埋めるのが長期戦略という位置付けです。
この手法の欠点は、将来予測が凡庸だと、他社とビジョンが似てしまうことです。せっかく遠い将来のことを考えているのに、わざわざレッドオーシャンに向かう道筋を描くことになりがちです。しかし一方で、奇抜な未来予測をしてそこに突き進むというのもかなり勇気の要る賭けです。こういった構図を考えると、ビジョンを設定してから戦略を描くのは間違いだというルメルトの主張に賛同したくなります。
現実は、戦略立案時にパーパスやMVVを参照していない?
では、パーパスもMVVもなしに重要な経営課題を設定できるのでしょうか。
もちろんワンマンな社長が独りで決めるのであれば簡単です。なぜなら彼/彼女には企業のパーパスやMVVが内面化されていて、それを基準に評価できるからです。一方で、もしダイバーシティの大きい、ローコンテクストなコミュニケーションスタイルの経営陣であれば、明文化された何かの基準がない限り、課題の優先順位は設定できないでしょう。時価総額と顧客満足度のどちらを優先するのか。マーケティングとイノベーションのどちらを強化するのか。
ですが、ルメルトともあろう者がこんな幼稚な問いを想定してないはずがありません。
ここからは更に想像を重ねねばならないでしょう。
おそらくは、ルメルトの知る経営陣は、パーパスやMVVが存在しなくても重要課題を選べるか、あるいは存在するにしても、いざ優先順位を決める際にはパーパスやMVVを参照していないか、そのどちらかです。それを嫌と言うほど見ているので、パーパスやMVVは不要と断言できるのだと思います。
もしも創業者が健在なら、理念というのは単に創業者の思いを言語化したものでしょう。ですから、それが明文化されていようがいまいが、創業者の判断は変わりません。反対勢力への説明が事前に言語化されているかどうかに過ぎない状況です。
あるいは最悪のケースとして、経営陣が信じてもいないイメージ形成のためだけの理念を謳っている会社があるとしたら、ルメルトが何の役にも立たないと切り捨てるのも分かります。
今は亡き創業者の思いを汲んで言語化された理念の場合はどうでしょう。その言葉を金科玉条のように守り続け宗教化してしまうことはあり得ます。しかし、もし創業者が生きていたら、状況の変化に応じて方針を変えるかもしれません。だとしたら、どこか本末転倒の印象を受けます。
こう真面目に考えていっても、パーパスやMVVが経営判断とシームレスに繋がっているケースは案外と少ないのに気付きます。
理念は権限移譲には役立つ
ここまで書いてきて、むしろ実は、理念はその下のレイヤーのためにあるのかもしれないと気付きました。
経営陣は重要な課題を決めます。そのアクションのための計画が戦略であり、立案にあたって必ずしもパーパスやMVVといった理念はいちいち参照されなさそうです。しかし、複雑で変化の速い現代において、全ての決断を経営陣が行うことはあり得ません。そうして権限を委譲されたミドルマネジャーは、あたかも経営者のように意思決定をしつつ、メンバーの納得感を上げモチベーションを高める必要があります。このときに、経営陣と異なる判断軸であってはなりませんし、かといっていちいちお伺いを立てる時間はありません (無能だと思われるリスクもあります)。だからこそパーパスに照らして判断し、メンバーとミッションを共有し、ビジョンの実現に向け知恵を絞り、バリューに合わない行動を抑制して文化を強化するのです。
このレイヤーの行動がルメルトの議論のスコープ外だとしたら、戦略立案に理念が不要ということと、意思決定に理念が必要という話は矛盾しなくなります。
戦略とアジャイルの関係
レイヤーが下がってくると、アジャイルが気になってきます。
アジャイルは、目標と計画を事前に入念に立てるより、投入リソースを決めてあとは高速にPDCAを回す方が生産性も高く品質も良いというアプローチです。これをプロジェクトマネジメントから拡げて経営に当てはめるとき、戦略不要論が生まれます。ありたい姿と投入リソースを決定し、高速なPDCAを回せば戦略=計画は要らないのではという話です。
アジャイルは事前に詳細なロードマップを設定しません。ユーザのフィードバックを指針に、様々なタスクをこなせる多能工軍団が柔軟に手分けしながら猛然と突撃し、間違っていると分かれば一瞬で後退します。その、ともすれば反知性的なプロジェクトマネジメントの方が生産性が高いという話は、心のなかで納得していない人もいるにせよ、どうやら間違いなさそうです。
それを経営に当てはめるとすれば、アジャイル開発と決定的に異なるのは、ユーザのフィードバックの有無です。P&Gのように “Consumer is boss” を掲げれば、経営自体もアジャイルにできるのでしょうか。あるいは経営というのは施策の結果が遅れて現れるので、アジャイルには向いておらず、戦略不要論は誤りで、事前の計画=戦略が重要なのでしょうか。
ルメルトは同書の中で、戦略は18か月程度の短期で扱えるものにすべきと言っています。短期で扱える課題にフォーカスし、その解決を繰り返していくという姿勢はアジャイルと非常に近いと感じます。その意味では、ルメルトの言う“戦略”は、実はこれまで語られてきた戦略という言葉よりもかなり戦術に近いのかもしれません。
実際に文中にも以下のやり取りが出てきます。これは、すべきことをバックログに貯めておき、その中から優先度を決めてサイクルを回すアジャイル開発と相似に見受けられます。
ところが、アジャイルは迷走を防ぐためにビジョンが重要
この文脈で、ラディカ・ダットの『ラディカル・プロダクト・シンキング』を思い出しました。この本は、プロダクトマネジメントの金字塔と言われていますが、アジャイルやデザイン思考が顧客のフィードバックに左右されて迷走するのを避けるために、開発するプロダクトのビジョンを定め優先順位付けを明確化することを重要視しています。
そう考えると、戦略も短期のフィードバックを回すだけではなく、最終的にやりたいことを明示しておくのは重要に感じます。プロダクトマネジャーがミニCEOと見做されることを考えれば、重要な示唆ではないでしょうか。
理想論を排してリアリズムを追求する
ここまで3000字以上書いてきて、やはり決定的な納得感を得られていないことが分かります。おそらくは、ルメルトと前提を共有できていないからでしょう。
ルメルトが徹底的にコントロール可能な範囲にスコープを当てたがる理由は何か。世間では簡単にコントロールできない夢 (Massive Transformative Purpose) を掲げる企業に注目が集まるのか。そこを突き詰めずに戦略の在り方を議論しても並行線に終わります。
ただ、少なくとも共通するのは、計画のようで計画でない戦略は、その名に値しないということです。壮大なビジョンや崇高なパーパスが必要かは措いておくにせよ、少なくとも計画は実行可能な期間と大きさに限定しないといけません。アジャイル開発ならそれは2週間で、ルメルトの戦略なら18か月です。ルメルトがコングロマリットに否定的なのも、短期に集中すべきと言うのも、人間の知性の限界を知るからこそ、計画できる範囲を絞るべきとの考えからなのだと思います。
戦略論には、「経営者ならそのくらいはできないといけないですね」のようなあるべき論が含まれがちですが、徹底的なリアリズムを感じる一冊でした。