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和紙漉き 7  和紙のこと綴り I

柳宗悦

はじめに和紙は強く美しい。久米康生著 ”和紙の文化史” 木耳社 昭和51年出版 を参考にして、【】記述。
【 昭和の初期の民芸運動のリーダー柳宗悦(やなぎむねよし)は、和紙の美という著書で「どこの国を振り返ってみたとて、こんな味わいの紙には会えない。和紙は日本をいや美しくしているのである。日本に居て和紙を忘れてはすまない。」と述べている。

柳宗悦

和紙の生産者は、明治中期で6万8千戸、柳が、この文を書いた昭和8年には2万戸、この著書の出版された昭和50年頃はなんと800戸と激しく衰退した。】
これは洋紙が発展して、和紙の販路が衰退したことに起因するそうだ。

柳は、以下のような重要な一文を残す。
【「私達は量に於て助けを得たが(洋紙の量産を指す)質に於て失ったものは大きい。人々は紙の粗悪に無関心になった。、、、、質を失ふ事は凡てを失ふのに近い。私は和紙の美を忘れることは出来ない」】
と言っているそうだ。これは、和紙以外の日本の美術工芸の世界にも共通することだと思いますね。経済的に近代大量生産の経済構造が優位に働く。(しかし?)滅びようとする危機を迎えてはじめて、(私?)のような心ある人たちの関心が静かに高まっていくと述べてる。
【 正倉院に残されている紙を調べると「絹や麻はなかば風化している。だが、古文書に用いられている和紙だけは、天平時代そのままの光沢を放っていた」 】と。
紙と墨は長く持つのだ。

柳宗悦の著書三冊が青空文庫にあり、以下まとめました。
和紙の美、和紙の教へ、和紙十年 柳 宗悦
【 16世紀、キリシタンの宣教師たちは、故国の通信に鳥子紙(とりのこがみ)*1を「キリシタン通信」として愛用した。これが今でもスペイン、イタリアで保存されているのも、鳥子紙を選んだからだ。
シーボルトらが紹介しているので静かに西洋の認識が広がっていった。画家レンブラントも数多くの和紙を使っている。ピカソが愛用した版画洋紙は福井県の今立町から輸出された越前奉書であった。
何百回もバレンで刷って色重ねできる強い紙である。

講和条約の紙

1919年のベルサイユ条約正文用紙には日本の局紙が使われている。】
【 戦後、ロンドンタイムズの日本支局長だったフランクホーレーは、和紙の研究者として知られている。サンフランシスコ講和条約は吉田茂が署名するわけだが、条約文書の用紙に和紙を使いたいと相談され、「講和条約の寿命は和紙の寿命よりも短い。そのような立派な紙は使う必要はないでしょう」と答えたという。結局は和紙が使われたが、彼は条約の生命よりはるかに和紙の生命力の強さを理解していた。 】

紙の丈夫さについて

【 紙は弱いものであるという観念は、とくに水に弱いことである。しかし、商人達は大福帳に長い紐をつけて、火事が起こると、紐を垂らして大福帳を井戸水につける。火事が収まって、引き揚げ乾かすと、そのまま使えるという。紙衣、紙布も紙の強さと軽さを生かした衣料としたもの。さらに漆を結合させ、陣笠、水筒、椀、煙草入れ、ひょうたんなども作られている。ふすまや明かり障子は「紙の文化」として日本の文化を象徴する言葉の底辺をささえている。それも和紙が強く、美しいために、日本人の生活に深く浸透したからである。 】と述べている。

【 和紙はあらゆる生活文化の世界に使われ、愛用されている。白い和紙が文化の基盤を固め、彩色の紙が文化に豊かな内容を盛っていた。】
【 安部栄四郎氏の岩板工房を訪れた白井 伝氏の句
「すみとほる みづのいのちと あたたかき ひとのまごころ かみにかほるも」と詠む。
和紙は永遠に流れ続ける水の生命をふくむとともに、漉き人の誠実なあたたかい心で生み出されている。
「紙は心で漉く」という。だから和紙はあたたかい。自然と調和した日本の文化史を記すには、最もふさわしい材料だった。】
ここで、著者は【 明治初期から西洋の剛鉄のペンが毛筆を追って、書写の主役を演ずるようになり、冷たい洋紙があたたかい和紙の領域をふみにじってしまった。もう再び和紙の時代が復活することはない 】と説く。
確かにそうであるかもしれないが、現在の我々の高度に発達した経済社会の中で、前述した、滅びようとする危機を迎えてはじめて、日本人として、壮大な年月の間に培ってきた遺伝子が、今、和紙好きな、心ある人たちの関心が静かに高まっていくと小生も思う。特に、若い人が和紙に魅せられて、と漉き体験に来るということは、こういうことであると思う。

おもろしろい話

鼻紙という章がある。伊達政宗が派遣した支倉常長ら使節団の使い捨てた鼻紙を、西洋人が拾って大切にしたという話があるとのこと。1615年、フランスの地中海に面したサン・トロペスで、使節団が鼻紙を捨てると、殴り合うように手に入れたが、この常長のものはとくに、喜ばれ、彼も必要以上に鼻をかんだ、という記録があるそうだ。古い布ぎれを原料として溜漉きするヨーロッパの紙と違い、繊維の長い原料を流し漉きした日本の紙は、薄くても強く、ねばりがあることがヨーロッパ人を驚かせたのであろうと記す。

私自身、長年、複写機やプリンターの技術開発をやってきましたが、使う用紙の性質に悩まされ続けていました。日本人の薄い紙へのこだわりは、現代の大量生産の抄紙技術でも、生き続け、薄い用紙は、海外では作れなかった。日本の用紙を大量に作る技術は依然として、すばらしいものだ。逆に印刷の機械側、特にプリンターにとっては泣かされ続けるのだが、、、、、

縦目と横目

話はそれますが、用紙には縦目と横目のあることはご存じでしょう。プリンターにおいて、用紙の進行方向に対して、腰が弱くなる横目の薄い紙を、プリンターに通すのは、今でも難しい。用紙の進行方向と同じ方向の目の用紙を使うのが基本となっている。さらに、トナーを用紙に溶融させるため、加熱するので、用紙がカールしてしまうのだ。和紙を漉いているとき、前後に揺さぶるが、試すと、一方向に、強い、そろった紙になる。破るとよくわかる。そこで、横ゆすりを加えると、横方向も強くなる。縦横のゆさぶりの結果が表面の繊維のからみ、風合いを色々出すのだと思います。
脱線からもどりませう。
和紙は特に、平安朝時代に煌びやかに大発展します。平安時代は794年から1185年の約400年間だ。結構、長い期間だが、日本の文化の重要な部分が形成される。特に中期から後期の藤原時代は、かな文化がひろまり、女流文学が盛んになる。文学、書道、絵画などが盛んで、これを支え、発展していったのが、和紙の美を求める製紙技術で、官営の製紙工場が出来ていたくらいだから大発展だった。
染色、墨流し、金銀箔装飾、雲母や胡粉を使う型の模様、継紙の技巧があった。切り継ぎ、破り継ぎ、重ね継ぎは高度なもので、いづれも1mm単位で、重なって継ぐ技法。華麗な料紙を作り上げる加工技術は平安時代で最高の水準に達したわけだ。この時代には藤原道長が中心的な存在としていた。この時代の中国、韓国はどうだったんでしょうか。後日、調べてみようと思う。
平安時代の前半は唐絵が流行し、花鳥、風景などが描かれ、時代が進むと、日本を題材にした大和絵に移行していった。これらの絵は屏風や障子(襖)に描かれた。そして、次第に物語りの文学を描き、絵物語に変化します。さらに発展して、巻物となり絵巻物が発展する。このときの紙は、丈夫な流し漉きによる良質な和紙が使われ、製紙業が発展した。源氏物語絵巻はは最大の成果なのでしょうか。多々ある絵巻物で、竹取物語、伊勢物語など有名ですね。和紙技巧の頂点の時代です。

紫と紅の感覚

この綴りのほとんどを参考にしている久米康生著 ”和紙の文化史”では、久米氏は、紫と紅の感覚という項を書いています。興味のある内容なので拾ってみましょう。和染紙は奈良時代にすでにあって、平安時代になると、豊かな日本的感覚でさらに新しい色彩を加えている。この時代は紺や緋などの大陸的感覚の色を敬遠して、「紫と紅」の色を好んだ。紫は高貴(あで)やか、雅やかであり、紅は艶(なま)めかしさを表現する色で、女性的な平安文化に最もふさわしいものであった。
著者はさらに、ことに紫は高貴、優雅、柔婉(じゅうえん)という女性美の最高理念をあらわすとして、色の中の色とみなされた。源氏物語では才色兼備の理想の女性に「紫の上」の名を与えている。枕草子では「すべてなにもなにも、紫なるものは、めでたくこそあれ。花も糸も紙も」と清少納言は記す。紅は柔婉であり、むらさきのような高貴さ、優雅さに欠けることから、庶民性の強い愛好色であった。平安時代にあらわれた色として、「二藍」「紅梅」があって、二藍は、華やかな赤みの紫。より深みを求め、繊細さを求める平安女性の色彩感を表している。枕草子には、こころゆくものの条に二藍の直衣指貫(なおしさしぬき)を数えている。さらに、うれしきものの条には「御返しは紅梅の紙に書かせ給ふが、御衣の同じ色に匂ひたる」とある。やがて、和の色となる朽葉色、萌葱色、海松色(みるいろ)木賊色、浅黄色など自然を深く観賞して中間色を表現している。和の色を調べて行くのも面白いですね。かさねの色目もあります。もう一つの大きな感性に香りがあります。香りを染色に組み入れた丁子染めがあります。絵合わせ、歌合わせ、香り合わせは平安貴族が好んだ。恋文などに、料紙へ薫香を組み入れることが流行した。
平安時代は、わずか3000人以下?ぐらいの貴族がこのような華麗な世界で希に見る文化を創造したことは、日本人として誇りを強く感じます。すばらしい日本女性たちに感謝感謝でーす。紫の上の我が日本女性よーー。今も女性を中心に和紙が扱われています。もちろん男性も、、

江戸時代の和紙産業

町人文化が大発展し、紙の需要は各地で膨大に増加しました。またまた、久米康生著「和紙の文化史」から拾っていきます。よくまとめられた本です。敬意を表します。

紙は現代もインフラの重要な基幹産業です。江戸時代は特に、庶民文化が重要な位置を占める時代です。紙の技法も複雑に発展します。浮世絵版画との関連も丈夫な紙が発展します。
南蛮文化の影響で更紗氏、油引や渋引紙などがあります。江戸小紋などの型紙もそうですね。
印刷術では活版印刷が秀吉の朝鮮出兵の文禄の役(1592年)で朝鮮から入ってきました。本阿弥光悦の書の弟子の豪商、角倉素庵(すみくらそあん)が古典文学を嵯峨本(光悦本)として出版。長崎では秀吉が禁圧するまでキリシタン版が出版されました。
朝鮮では鋳造の金属活字でしたが、日本では普及せず、木活字でした。その後は、活字の組み版というよりは版画のように一枚で作る活版が普及しました。種類の多い漢字には一文字一文字の活字は普及できなかったのです。
出版の部数では当時、中国、日本の方がヨーロッパよりも多かったのです。ヨーロッパは聖書の発行が主だったのですが、日本などは庶民文化による種々の出版が行われていたのですね。
 
江戸では、紙の生産地の拡大に伴って、苦しい農民の仕事としても生業になっていったのです。それぞれの紙を漉く技術は今でいうノウハウ、すなわち、秘宝で隠した
それにまつわる逸話が各地に残っています。土佐では、吾川郡伊野町の安芸三郎左衛門家友が伊予の新之丞という人物が路上で苦しんでいるのを助け、紙漉きを教えてもらった。そして土佐七色紙を作った。後年、新之丞が伊予に帰ろうとしたら、土佐七色紙の秘伝を守るために先の家友の刃で斬殺されたといわれているそうです。伊野町では紙業の恩人として碑が建っています。
因幡の紙は1633年(寛永10年)流浪して苦しむ美濃の弥助を鈴木弥平という人物が助け、和紙漉きを学んだ。弥助は美濃に帰ってから断罪された。元結紙で知られた長野の飯田市で、元禄時代、晒紙の技法を伝えた美濃の紙工、稲垣幸八は技法に胡粉を使うことが秘薬であることをなかなか教えなかった。酒で酔わされて胡粉であることをとうとうしゃべった。
なんだこんなものか!と怒った村人が彼を天竜川に投げ込んで溺死させたという話があるそう。
さらに、この晒紙を名古屋から来た桜井文七が江戸に広め、文七元結と呼ばれた。この文七も他の地方で製造されるのを恐れて大平峠で殺されたともいわれているそうです。
近江雁皮紙を漉く上田桐生という里に、泥土を混入する方法を教えた摂津の名塩(西宮)の紙工の二人は、帰国して獄につながれたなどなど、なんとまあ、紙生産の世界以外にも幕藩体制の中に色々あったのでしょう。

山梨の市川大門の製紙の起源伝説は、身延の中富で紙祖と仰がれる望月静兵衛が伊豆から1541年に導入した。
私はなかとみの和紙の里の職人と親交がありますが、この町の紙工の名字は望月と笠井がほとんどです。
長野の戸隠村、裾花川での紙は山家紙といい、葛山城主の落合備中守が自ら漉きをはじめた。(1532-54)
栃木県那須地方では1213~18年(天保年間)に越前の技術を導入して那須奉書を創製、天正18年(1590)に那須三郎資朝が檀紙、桟留紙、程村紙を作る。
九州では筑後市の福王寺の住職、日源上人が故郷の越前今立五箇から三人の弟達を招いて文禄年間(1592-1659)にはじめて、肥後の八代市に伝わった。熊本では加藤清正が朝鮮から連れてきた紙工、慶春と道慶によって、川原紙、浦田紙が育ったといわれています。
東北地方は古くからあったが、近世では伊達政宗が山形県東置賜や福島市から優秀な紙工を招き寄せて、各所に根付かせた。
さらに、水戸光圀が西の内紙と命名したのが正保4年(1647)、紀伊で保田紙(1659)、信濃穂高村(木島平村)内山紙(1661)駿河半紙(1764-71)越後、小国紙(1682)、周防、土佐の永禄年間から越中八尾紙の元禄年間までの百年間が、近世製紙の勃興期であり、幕藩体制の確立期で、産業界が活気に溢れた時期です。
米の増産、漆、蝋、塩、油、綿、煙草、養蚕などが商品経済に組み込まれていました。製紙業もこれらの産業に応じて消費が盛んとなり、新しい紙の産地が形作られました。

幕府の御用紙と藩の専売制


幕府は御用紙の調達を指定します。家康は1598年、伊豆修善寺の文左衛門に黒印状を与え、伊豆産の鳥子草、雁皮、三椏の独占伐採権を認めた。御用紙を漉くときは、修善寺と立野両村の紙漉きが手伝うことを定めました。修善寺の紙漉きの一部は駿府に移され、紙屋村が作られました。商人とつるんで悪巧みするような、よく映画、テレビのドラマの話が多々あった。
周防、長門、岩見の津和野、安芸、広島藩など西日本に専売制を実施した藩が多い。特に、この諸藩は請紙制という強力な専売体制をとった。その地域の石高に応じて米の代わりに紙を割り当てて、この割当量を請け負い必ず上納させる義務を持たせるという非情な制度である。楮坪し(こうぞならし)という算定法もあった。木楮三十六貫が一釜、三釜分を半紙一丸(12000枚)楮石として、藩のいい値で納めさせた。藩はこれによって収入の目標を決め、景気変動でもその損失分を生産者の農民に弁償させた
当然のことながら、農民には厳しい労働を強制してたので、紙一揆がしばしば起きた。ひどいはなしですね。
士農工商制度ではぬくぬくと農民を強いていたのです。毎晩毎晩夜なべに楮を削り煮る。灰はそば灰、紙漉きは簀の子の上にむしろを敷いて正座して漉き、簀は馬の尾で編んだそうだ。馬のしっぽは丈夫で、こよりにすると、米一俵をつり下げることができたそうだ。この簀は高級な紙を漉くのに用いられた。
冬場の厳しい仕事で、旧正月の四月には納期が来るわけです。割当量をおさめれなっかたものは、火あぶりの刑や裸体で馬に乗せられ市中を引き回されたりしたそうです。残酷な話です。そして、農民は逃げ出す津和野は特にひどかったそうです。津和野の町はすてきですね、などと、現在の人は、ノー天気、どの世界も支配者は虐げられた犠牲の上に成り立っていたということを忘れないように意識しなければなりませんね。というこれを綴っている本人の先祖は武士でした。津和野藩の多胡主水真益という鬼主水、土佐藩、製法の秘密を徹底的に守らせた。専売制も厳しいものだったそうです。
 
紙一揆 
当然起こるのが、紙一揆。江戸という平和な時代が紙の消費を増大させ、農民が虐げられる結果となる。幕府は藩を富ませないようにしていたので、藩は紙という産業で増産を強いて収入を得ようとした。
紙漉きの地は、一般に山の中、米は作れず、食糧不足。割当量をこなすだけ、それも冬場のつらい仕事。紙一揆が起こるのは当然である。農民は自身で利益を得ようとすることが製紙業の発展にもつながったわけで、専売紙である蔵紙のほかに民間での販売権を認めた平紙というのがあった。これに、紙の販売業者が目をつけて生産量を一方で増やしたことになる。農民の生きる光はこの平紙を維持、発展させることであったそうです。
このように、江戸時代は紙の大きな発展があり、基幹産業となって行ったわけです。
経済の発展にはいつも犠牲が生じるもので、和紙一枚を手にするとき、長い歴史の上に成り立った一枚であることを意識したいものですね。
さて、時代は明治維新の革命から、明治の殖産興業、いわゆる産業革命の時代に急速に変化します。洋紙産業の登場です。


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