見出し画像

ヴィパッサナー瞑想の源流~『念処経:Satipaṭṭhāna-sutta』について~ ③    Lotus Radio#7

仏教やマインドフルネスを深く掘り下げつつ、その面白さをわかりやすくお伝えするラジオ 「Lotus Radio」第7回を配信しました!

今回は「ヴィパッサナー瞑想の源流~『念処経:Satipaṭṭhāna-sutta』について~」の第三回です。
 今回は「身体に対する気付き」の部門の四番目「身体の内部の観察」からスタートです。ブッダはここで、足先から頭のてっぺんまでの身体の隅々を観察することを説きます。実はこれ、今でもおなじみの「ボディ・スキャン瞑想」の元ネタなんですね。
 次の「身体を構成する要素の観察」では「地水火風」という古代インドの物質を構成する元素のような存在をご紹介いたします。ティク・ナット・ハンさんの言葉を借りて言えば、この瞑想を通じて「自分の肉体と外の世界が(地水火風という)同じ要素を共有しながら互いに関わり合っている」ことが理解できます。
 そして、「身体に対する気付き」の部門の最後には、「身体の腐敗の観察」があります。墓地に捨てられた死体が時間の経過とともに九段階の過程を経て、腐敗し、やがて骨になっていく様子を観察する瞑想です。一見グロテスクにも見えますが、この瞑想が実にさまざまな面でプラクティスの発展に効果的なこと、また文化的にもこのプラクティスが遠く日本へと伝わり、「九相図」という絵画やお坊さんたちの特異な役割を生み出し、ひいてはそれが現在の京都の景観へとつながっていくという興味深い側面を持っています。「メメント・モリ」という西洋絵画のテーマやどうして京都のまわりにお寺が多いかなど歴史ロマン満載の内容となっています。

よろしければご視聴くださいませ。(下記のリンクよりご視聴できます)

レジュメも以下よりダウンロード可能です。よろしければご利用ください。

※下記は註釈やハイパーリンクが表示できないため、フルバージョンのレジュメをご希望の方は、上記よりダウンロードをお願いいたします。

ヴィパッサナー瞑想の源流~『念処経:Satipaṭṭhāna-sutta』について~ ③ 
(※略号:Ⓣ=ティク・ナット・ハン師 ㋜=アルボムッレ・スマナサーラ長老)

⑷身体の(不浄な)内部の観察(厭逆観察の部)Ⓣ[2011:31-33]に一部加筆
さらに修行者は自分自身の身体を、足の裏から上に向かい、そして 頭頂の毛髪から下に向かって、身体がその一部としてもつ不浄な物質に満ちた 、皮膚に包まれた身体の内側を瞑想(観察)する。「これが頭髪、体毛、爪、歯、皮膚、筋肉、腱、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、横隔膜、牌臓、肺、小腸、大腸、(腸間膜)、排泄物、胆汁、痰、膿、血液、汗、脂肪、涙、油分、唾液、粘液、関節液、尿」、(このように瞑想・観察する。)
比丘たちよ、両端が開く袋(を想像してみなさい。)そのなかには、玄米、野生米、緑豆、インゲン豆、胡麻、白米などさまざまな穀物が詰めこまれている。よく目が利く人がこの袋を開けたなら、なかを見てこう言うだろう(観察するだろう)。「これは玄米、こちらは野生米、そして緑豆にインゲン豆、胡麻、白米である」 と。これと同じく修行者は、全身を足の裏から頭頂の毛髪までにわたり、一枚の皮膚に包まれ、身体がその一部としてもつ不浄な物質に満ちた身体の内部をひと通り眺め渡して、「これが頭髪、体毛、爪、歯、皮膚、筋肉、腱、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、横隔膜、牌臓、肺、小腸、大腸、排泄物、胆汁、痰、膿、血液、汗、脂肪、涙、油分、唾液、粘液、関節液、尿」、(このように瞑想・観察する。)
これが身体において身体の観察を保ち続ける方法である。このように身体の内や外から、または内と外の両方から観察する。身体において物事が生じつつある過程や消えていく過程を、または生じ消えていく過程を同時に観察し続ける。さらに、理解と十分な気づきがもたらされるまで、「ここに身体が存在する」という事実を注意深く受け止める。雑念にとらわれずあらゆる束縛を受けずに、この観察を保ち続ける。比丘たちよ、これが身体において身体の観察を行う方法である。

・ボディ・スキャンの元ネタです。ボデイ・スキャンとは身体の足先から頭までの各部分に順にフォーカスし、それぞれの部位の感覚(かゆみや痛み、こりなどから表現しにくい微細な感覚まで)に気付いていく瞑想手法です。ヴィパッサナー瞑想の一種と言ってもいいでしょう。有名なところでは、ゴエンカ式ヴィパッサナー合宿では、これが後半の日程のメインになるようですし、MBCT(マインドフルネス認知療法)やMBSR(マインドフルネス・ストレス低減法)のプログラムの中にも取り込まれています。プラムビレッジでもディープ・リラクゼーションの時間にすることが多かったです。ヴィパッサナー(vipassanā)の「ヴィvi-」は「(はっきりと明確に区分して」という意味であり、「パッサナーpassanā」は「見る・観る」という意味です。つまり、普段なんとなく漠然と・雑然と感じている身体の感覚を「はっきり明確に区分して観る」というのがその原意です。このことからすれば身体を各部位に分け、それぞれの部位が持ついくつかの感覚をひとつひとつ丁寧により分けて見ていく(まさに「熟練の農夫が袋に雑然と詰まった穀物をより分けていくように」)というのはヴィパッサナーの原意にかなった行いであると言えると思います。 
⑸身体を構成する要素の観察(要素観察の部)Ⓣ[2011:33-35]
さらに修行者は、どのような姿勢でいる場合にも、身体を構成する要素をひと通り眺め渡し、「この身体には、❶地の要素、❷水の要素、❸火の要素、❹風の要素がある」と観る。 
熟練した食肉解体の職人、またはその見習いが牛を殺し、辻に座ってそれを多くの部分に切り分けていくのと同じく、修行者は自分の身体そのものを構成する要素をひと通り点検して、「この身体には地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある」と観る。
これが身体において身体の観察を保ち続ける方法である。このように身体の内や外から、または内と外の両方から観察する。身体において物事が生じつつある過程や消えていく過程を、または生じ消えていく過程を同時に観察し続ける。さらに、理解と十分な気づきがもたらされるまで「ここに身体が存在する」という事実を注意深く受け止める。雑念にとらわれずあらゆる束縛を受けずに、この観察を保ち続ける。比丘たちよ、これが身体において身体の観察を行う方法である。

・身体を「要素に分けて観る」という瞑想を説明。ここでもヴィパッサナー瞑想の名前にふさわしく「はっきり区別して観る」ことが説かれる。⑷との違いは、今回は対象が「地水火風」という要素なだけ。

・仏教では身体を含めてこの世界全部は下記の四要素で構成されているとされる。 
❶地の要素:「硬い」性質。水で言えば固体=氷。身体で言えば骨や歯、爪、髪、体毛。
❷水の要素:「流れる」性質。水で言えば液体=水。身体で言えば、血液や体液、汗や排泄物。
❸火の要素:「火・熱」の性質。水で言えば、形態に変化をもたらす温度。体で言えば、熱・温もり。
❹風の要素:「風・空気」の性質。水で言えば気体=水蒸気。体で言えば、呼吸やおなら、お腹や胸の膨らみ・縮み、震え等。 

・食べる瞑想における地水火風の要素の観察の一例 ㋜[2016:108]
地:食べ物を食べて体が重くがっしりする→風:身体が膨らむ(太る)→火:熱くなる→水:汗が出る 

・ここでも観察の最終目標は「縁起=インタービーイング」を洞察すること
→Ⓣ「体と宇宙のあらゆる存在とのかかわりあいを明らかにする瞑想」
:地水火風という要素(身体の四分の三を占める水、体内のミネラル分、呼吸が取り込む空気など)の観察を通じて、自分の肉体と外の世界が同じ要素を共有しながら互いに関わり合っていることを理解し、「自分のいのちが身体だけに限定されるのではないことを理解し、自己は身体であるという誤った考えから脱却」する。 Ⓣ[2011:93-95]

⑹身体の腐敗の観察(九墓地の部)Ⓣ[2011:35-39]
❶さらに修行者は、墓地に捨てられ横たわったまま一日、二日、三日を経て、膨れ上がり、青黒く変色し、腐乱した死体を想像して自分の身体とくらべ、「私のこの身体の本質もこれと変わらず、やがて同じ末路をたどる。そうなることは避けられない」と観る。
これが身体において身体の観察を保ち続ける方法である。このように身体の内や外から、または内と外の両方から観察する。身体において物事が生じつつある過程や消えていく過程を、または生じ消えていく過程を同時に観察し続ける。さらに、理解と十分な気づきがもたらされるまで、「ここに身体が存在する」という事実を注意深く受け止める。雑念にとらわれずあらゆる束縛を受けずに、この観察を保ち続ける。比丘たちよ、これが身体において身体の観察を行う方法である。

・現代のヴィパッサナー瞑想ではほとんど行われない瞑想法であるが、仏教においては非常に重要な瞑想である。前のシリーズにおいて自力ではどうしても「今、ここ」に戻ることができないということを述べた。その時に出てきた「今、ここ」に戻るためのツール、原始仏教における他力というのが「死」であった(『日日是好日経』参照)。この「墓地に捨てられた死体の観察」はまさにその実践例と言えるだろう。
 以下、墓地に横たわった死体が日を経るごとに腐乱し変化していく様子が九段階に分けて述べられる。

❷さらに修行者は、墓地に捨てられ、カラスにつつかれ、鷹やハゲ鷲、野犬に喰われ、ウジや虫が群がる死体を想像して自分の身体とくらべ、「私のこの身体の本質もこれと変わらず、やがて同じ末路をたどる。そうなることは避けられない」と観る。
これが身体において身体の観察を保ち続ける方法である。このように身体の内や外から、または内と外の両方から観察する。身体において物事が生じつつある過程や消えていく過程を、または生じ消えていく過程を同時に観察し続ける。さらに、理解と十分な気づきがもたらされるまで、「ここに身体が存在する」という事実を注意深く受け止める。雑念にとらわれずあらゆる束縛を受けずに、この観察を保ち続ける。比丘たちよ、これが身体において身体の観察を行う方法である。
❸さらに修行者は、墓地に捨てられてわずかに肉と血がこびりつくばかりの骸骨、靱帯でつながる骨となった死体を想像して自分の身体とくらべ、「私のこの身体の本質もこれと変わらず、やがて同じ末路をたどる。そうなることは避けられない」と観る。
❹さらに修行者は、墓地に捨てられ肉片さえもなく血の痕跡ばかりの骸骨、靭帯でつながる骨となった死体を想像して、自分の身体とくらべる。
❺さらに修行者は、墓地に捨てられ肉片ひとつなく血の痕跡もない骸骨、靭帯でつながる骨となった死体を想像して自分の身体とくらべる。
❻さらに修行者は、墓地に捨てられたひとかたまりの骨の残骸、ここには手の骨、あちらには脛の骨、大腿骨、骨盤、背骨、頭蓋骨と、散らばるばかりの死体を想像して、自分の身体とくらべる。
❼さらに修行者は、墓地に捨てられたひとかたまりの白々とした貝殻色の骨の残骸となった死体を想像して、自分の身体とくらべる。
❽さらに修行者は、墓地に捨てられ放置されたまま一年以上がたち、乾き切ったひとかたまりの骨の残骸となった死体を想像して、自分の身体とくらべる。
❾さらに修行者は、墓地に捨てられ骨が朽ちて塵となった死体を想像して自分の身体とくらべ、「私のこの身体の本質もこれと変わらず、やがて同じ末路をたどる。そうなることは避けられない」と観る。
これが身体において身体の観察を保ち続ける方法である。このように身体の内や外から、または内と外の両方から観察する。身体において物事が生じつつある過程や消えていく過程を、または生じ消えていく過程を同時に観察し続ける。さらに、理解と十分な気づきがもたらされるまで、「ここに身体が存在する」という事実を注意深く受け止める。雑念にとらわれずあらゆる束縛を受けずに、この観察を保ち続ける。比丘たちよ、これが身体において身体の観察を行う方法である。

・ヴィジュアル・イメージを出した方が分かりやすいと思うので、九相図というものを紹介したいと思います(リンクあり。以下日本語版Wikipedia「九相図」の項から引用)。

「死体の変貌の様子を見て観想することを九相観(九想観)というが、これは修行僧の悟りの妨げとなる煩悩を払い、現世の肉体を不浄なもの・無常なものと知るための修行である。九相観を説く経典は、奈良時代には日本に伝わっていたとされ、これらの絵画は鎌倉時代から江戸時代にかけて製作された。大陸でも、新疆ウイグル自治区やアフガニスタンで死屍観想図像が発見されており、中国でも唐や南宋の時代に死屍観想の伝統がみられ、唐代には九相図壁画の存在を示唆する漢詩もある。
仏僧は基本的に男性であるため、九相図に描かれる死体は、彼らの煩悩の対象となる女性(特に美女)であった。題材として用いられた人物には檀林皇后(嵯峨天皇の后)や小野小町がいる。檀林皇后は信心深く、実際に自身の遺体を放置させ九相図を描かせたといわれる。」

・見てわかるように、この『念処経』のこの部分が元ネタです。この肉体の腐敗を見つめるプラクティスがインド—中央アジアー中国―日本と時空を越えて伝わってきたことに非常にロマンを感じます。しかもタイやビルマなどでは難しくなってきたとはいえ、まだまだ現役でお坊さんも実践していますし(僧侶の実践風景)、檀林皇后のように自分や親族の死体をお寺に修行のために提供する信者もいます。
 図を見ていくと死ぬ前からスタートしているので、厳密には経典と対応していません。タイのヴァージョンだと結構経典と対応しています。(修行仲間にもらって今でも大切にベッドの脇に張っています)
 この瞑想はMaraṇasati(死への気付き・死に対するマインドフルネス)と言います。お釈迦様自身が、これには様々な効果があり非常に有用だと述べています(「Maraṇasati sutta」AN 6.19&AN 6.20.)。
まず第一に「肉体に対する執着を断つ」、そしてそれと同時に、「煩悩(特に異性に対しての性欲)を断つ」というのがあります。タイでお坊さんたちみんなが見守る中で遺体を火葬したという話はしたかと思います。その時、一人の韓国人の修行仲間が「今まで、どうして生身の女なんかに欲情してきたのか、わかんなくなっちゃったぜ。もう生身の女に欲情するなんて無理だな」と言っていました。つまり、そういう効果があるわけです。でもこの話には続きがあって、それを聞いた先輩のお坊さんが首を振って、「我々の性欲はそんな生易しいものじゃないよ。そんなに簡単になくなるんだったら、どうしてこんなに何年も修行してると思ってるの?」と嘆息していたのが印象的でした。我々の欲望というのはちょっとやそっとじゃなくならないんですね。だから、この「死への気付き」も継続的に何度もやる必要があります。
 そして、その「煩悩を断つ、執着を断つ」というのと同時に大切な効果が「やる気を出す」というものです。仏教的に言えば八正道の「正精進:正しい努力」へと人を向かわせてくれるというものです。「死への気付きの教え」(AN 6.20)の中でお釈迦様は「もしかしたら今夜にも蛇やサソリに嚙まれたり、食中毒などで死ぬかもしれない」と考えることで、「頭やターバンに火がついた人が必死に火を消そうと努力するように、悪い心や煩悩を捨てようと必死になって努力することができる」と述べています。つまり死を思うことで、本当に自分に大切なものはなにか、「今、ここに生きている自分」に向き合うことができるというわけです。
 ここでちょっと脱線して、この「死を想え」というプラクティスが仏教以外にもあるということを紹介したいと思います。「メメント・モリ」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?ラテン語で「死を想え(思い出せ)」という意味の言葉です(ちなみにMemento moriはMaraṇasatiと全く同じ語源を持っている。Maraṇa=moriでmemento=sati/smṛti)。
こんな西洋画を見たことはないでしょうか?―ハンス・ホルバイン『大使たち』
 この床の謎の模様を左から眺めると、骸骨が登場します。実はこの絵の隠れたメッセージは「若く才能にあふれていても死はいつ訪れるかわからない」というものです。キリスト教においては「死後の審判と魂の救済」が非常に強調されたため、このような絵画を見せて、人々の意識を死後の世界に向けると同時に、死後の審判にそなえて道徳的生き方をするように促したようです(英語版Wikipedia「Memento mori」/他にも絵画例あり)。ちなみに「メメント・モリ」はローマ時代から使われていたようですが、古代においては「明日、死ぬかもしれないから、今飲んで楽しもう!」という意味だったようです。時代が変わると、同じ言葉の扱いがここまで変わるかと驚かされますが、同時に言葉っていうのは時代と場所に応じて必要な形に変わっていくものだし、私自身も古びた仏教用語をよみがえらせるために、どんどん現代にフィットするように意味を変えていこうと改めて思いました。
 さて、脱線が過ぎましたので本題の仏教に戻りたいと思います。このように、仏教の僧侶が墓地や死体捨て場へ行って死体と向き合うというのはお釈迦様以来の伝統があり、実はこれが今の葬式仏教につながっていきます。つまり、古来日本人の中には「死は穢れ」という思想があり、神道の宗教家たちは死体に触れたり近付くことを忌み嫌いました(㋜によるとインドのバラモン僧も同じスタンスであったという ㋜[2016:97])現在でも忌中の間は神域に立ち入ることは慎むべきものとされています(神社本庁のページ)。それに対して仏教においては死は穢れではありません。むしろ修行を助け、煩悩を除いてくれる貴重な存在です。ですので、むしろ積極的に死体がある場所の近くに行ったり、住んだりしました。昔の日本では費用面等の理由から土葬が一般的であり、火葬は上流階級を除いてほとんど行われていなかったようです(㋜によるとインドでも同じような状況だったらしい)。京都だと鴨川の向こう側、現在の祇園の辺りや、北野や紫野、嵯峨野、化野などがそのような死体の埋葬所、もうすこしありていに言えば、「死体捨て場」でありました(京都の「~野」とつく場所はたいていそう)。そのような場所に僧侶が集まり、みんなが嫌がる死体の処理や葬儀などを行い始め、やがてお寺が建てられ、現在の京都の景色を形作っていったのです(みんなが嫌がる産業を独占して成功したという意味では、ユダヤ人が金融で成功したのと似ています)。ちなみに㋜によると、この遺体を観る瞑想はインドでも仏教だけに見られたものだそうです。インドではさらには墓守がお坊さんたちに「今日は品物が入りましたよ」とお坊さんたちに連絡までしていたそうです ㋜[2016:98]。確かに、僕がいたタイの僧院のお坊さんたちも、葬式だと聞いて、神妙になるというよりは「さあ、修行だ!」と張り切っていた感じでしたので、案外日本のお坊さんたちもかつてはそうだったのかもしれません。

 以上で①「身体に対する気付き」の部は終わりです。Ⓣはこれらをまとめて「ここで忘れてはならないのは、呼吸、姿勢、動作、身体の各部分—どれもが身体に属し、身体そのものであることです。身体を入念に観察していく意味は、こうした側面にじかに触れること、身体の誕生と死の過程や、その無我と縁起(相互存在)の本質を見ることにあります。ゆえに〈気づき〉の眼によって身体を観察する九つのエクササイズを通して、無常、無我、縁起という仏教の三つの基本的な考え方がじかに理解できるのです。私たちをありのままの世界に解放し目覚めへと導くのが、これらの九つの瞑想です 」(Ⓣ[2011:102-103])と結んでいます。

参考文献:
・片山一良、(1997)、『中部(マッジマニカーヤ) 根本五十経篇I』 大蔵出版
・小池 龍之介、(2012)、『「自分」を浄化する坐禅入門[増補改訂版]』 PHP文庫
・アルボムッレ・スマナサーラ、(2015)、『自分を変える気づきの瞑想法【第3版】』 サンガ
・アルボムッレ・スマナサーラ、(2016)、『大念処経 (初期仏教経典解説シリーズ)』 サンガ
・ティク・ナット・ハン著、山端 法玄・島田 啓介訳、(2011)、『ブッダの〈気づき〉の瞑想』 野草社
・ティク・ナット・ハン著、島田 啓介・馬籠久美子訳、(2015)、『ブッダの幸せの瞑想【第二版】』 サンガ
・チャンミェ・サヤドー著、影山 幸雄・影山 奨訳、(2018)、『気づきの瞑想実践ガイド(ブルーマウンテン瞑想センターでの法話集)』 サンガ 
・Analayo (2004),Sattipatthana: The Direct Path to Realization, Windhorse Pubns
・Bhikkhu Sujato (2005), A History of Mindfulness, 
(https://santifm.org/santipada/wp-content/uploads/2012/08/A_History_of_Mindfulness_Bhikkhu_Sujato.pdf)
・Bhante Henepola Gunaratana (2011) ,Mindfulness in Plain English, Wisdom Publications; Anniversary版
・『Monier-Williams Sanskrit-English Dictionary』 1899
・『PTS Pali-English dictionary The Pali Text Society's Pali-English dictionary』 1921-1925
・水野弘元著、(2015)、『パーリ語辞典』 春秋社

参照ウェブサイト
・日本語版Wikipediaの「九相図」の記事
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E7%9B%B8%E5%9B%B3
・英語版ウィキペディの「Maraṇasati」と「Memento mori」」の記事
https://en.wikipedia.org/wiki/Mara%E1%B9%87asati
https://en.wikipedia.org/wiki/Memento_mori
・Thanissaro Bhikkhu (1997), Maranassati Sutta: Mindfulness of Death (2) 
https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/an/an06/an06.020.than.html
・セイロン所伝の僧伽分派説(法楽寺HP)
http://www.horakuji.com/lecture/sravakayana/ceylon.htm
・The Pāḷi Tipiṭaka:ビルマ版大蔵経を収録するサイト(https://www.tipitaka.org/)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?