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マインドフルネスとは何か③    Lotus Radio#4

仏教やマインドフルネスを深く掘り下げつつ、その面白さをわかりやすくお伝えするラジオ 「Lotus Radio」第4回を配信しました!

今回は「マインドフルネスとは何か」を考えるシリーズの最後となります。マインドフルネスの源泉である仏教的マインドフルネス、その核心を伝える「日日是好日経」について深く、熱く語っております。

よろしければご視聴くださいませ。(下記のリンクよりご視聴できます)

レジュメも以下よりダウンロード可能です。よろしければご利用ください。

「日日是好日経」解説
・ここからはパーリ語原文が持つ奥深い豊かなニュアンスを味わいながら、一句ずつコメントを入れて詳しく経典の内容を見ていきたいと思います。

Atītaṃ過去を nānvāgameyya追い求めるべきでない, 
nappaṭikaṅkhe願うべきではない anāgataṃ;未来を
Anvāgacchati,[anu + ā + gacchati] 1. to go along after,to follow,run after,pursue
paṭikaṅkhati:[paṭi-kāṅkṣ] 期待す,希求す opt.3.sg

※「過去を追い行く」とは「過去に私の姿や思い、感覚(眼耳鼻舌身意の六根や色受想行識の五蘊=世界)はこうであったと歓喜すること」、つまり「過去の世界での嬉しかったことや気持ちよかったことに欲望によって縛られ、それをもう一度現在において喜んだり悲しんだりしてリピートして追想してしまうこと」(cf.過去の恋や成功体験、褒められたことなど)。

※「未来を願い行く」とは「未来に私の姿や思い、感覚はこのようになるだろうとまだ獲得されていないものの獲得に心を置き、それに歓喜すること」、つまり「未来の世界を欲望のままに思い描き、それに心躍らせ、期待し、願うこと」(cf.告白前のあれこれの妄想や事業の成功や受賞、名声を得る妄想など)。
(上記二つは「マハーカッチャーナ賢善一喜経」(片山 2002:155-176)の説明をベースにしています)

Yad-atītaṃ過去というものは pahīnaṃ taṃ, 過ぎ去った(捨てられた)ものであり、
appattañca まだ来ない(この手に入っていない)anāgataṃ.未来は
Patta,3 [pp.of pāpuṇāti] obtained,attained,got,reached

Paccuppannañca現に起こり存在している yo dhammaṃ物事(法)を、彼は, 
tattha tatthaその場その場で vipassati;よく観察し(※ヴィパッサナーの動詞形)
Paccuppanna,[pp.of paṭi+uppajjati,cp.Sk.pratyutpanna] what has arisen (just now),existing,present 

Asaṃhīraṃ揺らぐことなく(巻き込まれることなく・押し潰されることなく) 
asaṃkuppaṃ動揺することなく(怒りや感情に押し流されることなく),
taṃそれを(ヴィパッサナーを:現在の物事をよく観察することを) vidvā智者は(道理を知っている者は) manubrūhaye.よく実践すべきである(その力を強く大きくし、育むべきである)。
saṃhīra:[saṃharati の grd.] 可伏の,制御されうる saṃharati:[saṃ-hṛ] 集む,たたむ,制す,征伏す
Saṁhīra [grd.of saṁharati] that which can be restrained,conquerable  a° immovable,unconquerable
asaṅkuppa:a.[a-saṅkuppa<kup の grd.] 不動不揺の,堅固なる
(Skt) kup cl. 4. Ā. P. kupyati, °te (perf. cukopa), to be moved or excited or agitated, Suśr. ; BhP. ;
to swell, heave or boil with rage or emotion, be angry, be angry with (dat.; also gen., once
anubrūheti:[anu-brūheti] 増大せしむ,増修す,修習す. opt. anubrūhaye
Anubrūheti,[bṛh.caus: brūheti] to do very much or often,to practice,frequent,to be fond of (c. Acc.)
Brūheti,[cp.Sk.bṛṁhayati; fr.brh2 to increase] to cause to grow,increase; to promote,develop,practise,to put or devote oneself to
(Skt)bṛh or bṛṃh cl. 1. P. to be thick, grow great or strong, increase (the finite verb only with a prep.) :
Caus. bṛṃhayati, °te (also written vṛ°), to make big or fat or strong, increase, expand, further, promote,

※ただ「現在のものを観察」していればいいのではなく、大切なのは「揺らぐことなく、動じることなく」見ていくことが大切です。ちなみにヴィパッサナー瞑想においては過去に対する追想も未来に対する妄想も、現在生じているものであるなら「現在」のものとして観察します(ブッダですら瞑想で未来を知ったり、過去世を知ったりする)。だから、ティク・ナット・ハンも言うように、「今この瞬間に気づくとは、過去や未来のことを絶対に考えないということで はありません。過去や未来を深く見つめながらいつでも現在に意識をしっかりと置く、 それによってどんな怖れや悲しみにも飲み込まれないようになります。(ティク・ナット・ハン 2016:33)」ということが大切なのです。

※「揺らぐことなく」とはつまり「世界に飲み込まれないこと」を指します。時々、世界は残酷で、否応なく人を争いや絶望に巻き込みます。そうやって戦争や自殺、殺人などが起こるのです。だから、目の前の世界に巻き込まれないことの大切さがまず説かれます。

※「動ずることなく」とは「怒りなどの感情に押し流されないこと」を指します。この世の中にはどうしようもなく不都合なタイミングで、どうしようもなく不都合な出来事が起こります。少しでも事情が違えば、もう少し時間があってコミュニケーションが取れれば、起こらなかった掛け違いが時々起こってしまいます。そんな時、私たちは否応なく怒りに押し流され、多くの場合、様々な要因を考慮せず、わかりやすい「相手」を設定して、攻撃対象にします。そうして「あいつが悪い、あいつのせいだ、あいつを屈服させなくては」と考えて、頭はそれに支配されてしまいます。「動ずることなく」とはその巨大な負の感情のエネルギーの暴流の中で、押し流されず、踏ん張り、踏みとどまることを指します。

※ダンマパダ(法句経)に次のような一連の詩句があります。

「彼はわたしを罵った。彼はわたしを打った。彼はわたしに勝った。彼はわたしから奪った」と、
彼を怨む者たち―彼らの怨みは静まることがない。(ダンマパダ1-3正田大観訳、一部筆者修正)

「わたしを罵った。わたしを打った。わたしに勝った。わたしから奪った」と
彼を怨まない者たち―彼らの怨みは止み静まる。(ダンマパダ1-4正田大観訳、一部筆者修正)

実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。
怨みをすててこそ息(や)む。これは永遠の真理である。(ダンマパダ1-5中村元訳)
cf. "Hatred ceases not by hatred, But by love."と上記を引用し、
スリランカのジャヤワルダナ大統領は日本への戦時賠償請求を放棄しました

※これらは全く真理だと思うのですが、実際のところ、可能なのでしょうか?
私はこの「日日是好日経」を日常的に何百回となく唱え、人にも勧めてきました。それでも時にはどうしようもなく過去に引き戻されるし、未来の栄光を妄想し、怒りの波に押し流されてしまいます。それは愚かなことだと頭でわかっていてもです。瞑想をして、それらと向き合い、静めていっても、気を抜けばまたすぐそれらはやってきます。ティク・ナット・ハン師が言うように「昼も夜もマインドフルをたもつこと」(ティク 2016:27)など可能なのでしょうか。二十四時間、三百六十五日マインドフルに生きることなど可能なのでしょうか。
昔、プラクティスを始めたばかりの頃は可能だと思っていました。できないのは単に自分の修行不足のせいだと思っていました。しかし、僧侶になって、実践とともに日常を生きるようになって、改めて痛感させられました。これは無理だと。日本のお坊さんは、タイやスリランカのお坊さんたちのように、家族と離れ、仲間と規則正しい集団生活をしているわけでもないし、世間と隔絶された森の中に住んでいるわけでもありません。この欲望渦巻く世界のど真ん中で、世間とがっつり取り組みながら、というか本当を言えば世間にがっつり巻き込まれながら、生きています。そんな環境で暮らし、このお経の内容を実践しようとしても、やはりどこかで限界があることに気が付きました。調子のいい時は大丈夫です。一歩一歩、一息一息を楽しんで生き、あせらずのんびりと今の瞬間を味わい、人とも穏やかな気持ちで、真摯に向き合うことができます。でも調子の悪い時や疲れた時(あと調子に乗った時も)は全然ダメです。人が来ても会いたくないし、話を聞いていても早く終わらないかなと思うし、一人になれば、延々とアニメや漫画の空想の世界に浸りたいし、いかがわしいサイトや動画を見たいなと強烈に思うこともあります。もう全然ダメダメなのです。それでも翌日には威儀を正して仏前に向かわないといけないし、実践も休むわけにはいきません。皆さんが前日にどんなことがあっても翌日には社会人として会社に行かなくてはいけないのと同じように。そして、それが「普通」だと思うのです。「普通」というのは世の中の天才でも超人でもない99.9999…パーセントの人たちのことを指します。私も「超人になれるかも」と若干期待してマインドフルネスの実践を始めましたが、実践を通じて自分が「普通」の人間なんだと痛感させられました。そして、この思いをある場でシェアしたとき、思いがけず、多くの人も同じような想いをシェアしてくれました。それはすごく暖かくて、ああ、みんな同じなんだな、とすごく勇気づけられました。そして、同時にブッダの教えがそのような0.000000…1パーセントの超人のために説かれたとはどうしても思えないと感じました。そうでなくては、菩提樹の下で悟り、そのまま幸福のうちに命を終えることもできたブッダがその後40年以上の長きにわたって人々に教えを説く旅を続けたことの説明がつかないのです。そのような自分自身の気付きから、自分のプラクティスの原点であるこの経典ともう一度、頭を白紙にして向き合ってみました。そうして出会えたキーワードが次の句に含まれる「死」でした。

Ajjeva(Ajja-eva)今日こそ kiccaṃなされるべきである ātappaṃ(熱心に)努力が, 
ko誰が jaññā知っているだろうか maraṇaṃ suve明日の死を;
kicca:a.[karoti の grd.,Sk.kṛtya] なさるべき jaññā:[jānātiのopt.]知るベきである
Na(not) hi(because)というのは no私たちは 
saṅgaraṃ約束を(することができないから)
tena, mahāsenena maccunā.かの死の大軍と。
(死の大群=火や毒や刀などの死をもたらすたくさんの原因)
saṅgara:[〃<saṃ-gṝ] ① m.約束,誓約 a promise,agreement

※この句に関して、面白いコメント(ビルマの伝統的複註)がついています。それは、ここでいう「死の大軍との約束」というのは例えばどんなものかということを挙げて、「私がブッダにお祈りするまで数日間待て」とか「お金を払うから、数日待て」とか「自分の力や軍隊を使って排除してやるぞ」などと言って、死と取引することはでできないと言っています(片山 2002:475)。つまり人間世界では通用する友情や信頼関係、富や金銭、軍事力や権力などを使った取引が死に対してはできないということを言っているのです。こう書かれるとあまりにも当たり前なことを言っていて、どこかおかしくも感じるのですが、これは動かぬ事実です。死に対しては、人間世界のあらゆるルール、秩序、論理などが一切通用しません。死は突然にやってきて、不条理かつ一方的に私たちの命を奪います。いつ自分が死ぬか、あるいは愛する人や家族が死ぬか、そんなことは誰にもわかりません。だから死は往々にして「死神」などと言って恐れられると同時に、敬われてきました。死は人間がさからうことのできない「運命」や「宿命」、ひいてはそれらをつかさどる「自然」や「宇宙」を象徴しているからです。さて、ブッダはどうしてここでそんな「超人間的存在」を出してきたのでしょうか。
 もっとも単純な解釈としては「死」を意識することで、自分にとって本当に価値あるものがわかり、実践へのやる気、真剣さが湧くというものです。もし、「明日、自分が死ぬ」と言われれば、誰もだらだらとテレビを見て時間をつぶす人はいないでしょう。きっと大切な人と語らったり、空を眺め、そよ風を感じ、日常のありがたさを知ることでしょう。実際、癌で余命宣告をされた人などが大きな気付きを得て、残りの余生を幸せに過ごしたというのはよく聞く話です。高名な僧侶や宗教家の多くも人生のある地点で死と直面し、それが転機となって、それまでとは全く違った生き方を始めたという経験を持ちます。死は「無常」というこの世界のあり方をつきつけ、人はそのなかで否応なく、命の不思議さや奇跡に触れます。それが死をして人々を目覚めさせる原動力となるのではないでしょうか。この死の原動力を使うために、東南アジアの僧院では今も、「死隨念(しずいねん)」といって火葬場で人が焼かれる姿を見つめたり、骸骨を目の前に置いて瞑想をしたりしています。
 もう少し深く「死」の意味を見ていきましょう。そうすることでブッダがここで「死」を持ち出してきた意味がさらに深く理解できるようになります。まず、さきに紹介したダンマパダの句の続きを紹介したいと思います。

実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。
怨みをすててこそ息(や)む。これは永遠の真理である。(ダンマパダ1-5中村元訳)

「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。──これを他の人々は知らない。
しかし、これを知る人々があれば、争いはしずまる。(ダンマパダ1-6 中村元訳)

この句を含むダンマパダ第一章は「対句の章」と言って、二つの句がセットになっています。つまり1-5で「怨みを捨てれば、怨みはやむ」と言っておいて、1-6でその具体的方法として「自分が死ぬ」、もう少し原文に即していえば、「死神ヤマ(閻魔大王)の支配下にある(死神と常に共にある)(yamāmase)」ことを知ることによって怨みや争いを鎮めることができると言っているのです。
 普通に、ロジックだけで考えれば、「怨みを捨てればよい」と言うだけでいいはずです。つまり我々がコンピューターのような動作構造を持っているのなら、「怨みを捨てる」というインプットをすれば、それはただちに実行され、「争いがやむ」という結果が現れるわけです。これは「日日是好日経」にも言えることです。つまり、「過去を追わず、未来を願わず、ただ現在を執着のない心で観察する」とそれだけ言えば行動原理的には十分なわけです。なぜ、両者ともそこに「死」を持ち出してくるのでしょうか?
 これが先ほど述べたこととつながってきます。それは「昼も夜もマインドフルであること」を自分の力と努力だけで実行しようとしても限界があるということです。むしろ無理に頑張ってそれをすれば、へとへとに疲れ、果てはできない自分に絶望してしまうかもしれません。そうすれば幸福と心の安らぎを説いたブッダの教えに真っ向から反してしまうことになります。でも、ここで「死」を導入すればどうなるでしょうか。「死」とは我々にとって、まったく見ず知らずの「会話も取引もできない」エイリアンのような存在です。向こうに私たちの常識は通用しません。ただ予告もなく向こうからやって来て我々から最も大切な「命」を一方的に奪うだけの絶対的な存在です。死を前にすれば、どんなに富があろうが、能力や権力があろうが、我々は平等になすすべもない、ちっぽけな存在です。そして同時に死は我々だけでは気が付くことのできない大切なものを教えてくれます。命の尊さや目の前の世界が存在することの奇跡、この一瞬一瞬の煌めくような美しさ、そういったかけがえのない大切なものを教えてくれます。だから逆説的に死は我々にこの上ないプレゼントを与えてくれる存在でもあります。実のところ、「死」の存在なくしては「生の価値」を認識することもできません。よくSF映画やアニメなどで、不老不死になった者が、「死」を求めて、悪戦苦闘する姿が描かれますが、あれは自然な心理なのだと思います。死がなければ、今ここにこうして生きている「生」も価値がなくなってしまうのです。実際の所、死もなく、無限の時間を与えられたらと思うと、ぞっとしてしまいます。きっと最終的には発狂するか、植物状態のような死に限りなく近い状態になることを選択するのではないでしょうか。「死」が「生」に価値を与えているのです。そういう意味では「死」は「運命」あるいは「宿命」、つまり「命を運ぶもの」であり「命を宿すもの」と言っていいでしょう。我々は弱く、そうした大自然や大宇宙の働き、別の言い方をすれば神や仏(阿弥陀仏や大日如来のような超越的なブッダ)の働きがなければ、到底、「賢明な善き行い」を実行することができないのです。だからブッダは「怨みに怨みで返さないこと」や「ただ今だけを生きること」といった、一見、単純で簡単そうな「賢明な善き行い」を提示した後で、少し突飛に聞こえるような「死を思え」という句を足したのです。ブッダの人間に対する深い洞察がここに見てとれます。
そして、長い歴史の中で、ブッダのこの智慧は仏教を実践する者たちのなかで形を変えながら生き続けてきました。いわく、我々の内には「仏性」と呼ばれる、我々とは異なる清らかなブッダがいる。いわく、この世界はすべて「大日」と呼ばれるブッダのあらわれである。いわく、この世の外には阿弥陀仏がいらっしゃり、どうしようもない我々をその慈悲で救ってくださる、と。このように仏教の実践には我々を超越した「外部の存在」が必須であり、これが仏教的マインドフルネスと世俗的なマインドフルネスを分ける大きな分水嶺(ぶんすいれい)となります。つまり、仏教的マインドフルネスには、苦しみや欲望にまみれた人間世界に生きる「私という存在」を投げ出し、お任せすることのできる大いなる存在が必要となってくるのです。ただひたすらに座禅を勧め、自力の人だと思われがちな道元禅師もこのように述べています。

ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。(『正法眼蔵』「生死」の巻)

 徹底的なマインドフルネスの実践の果てに出てきたまさに至言だと思います。

Evaṃこのように vihāriṃ暮らし、ātāpiṃ,(熱心に)努力をし、 
ahorattam昼も夜も a-tanditaṃ;怠ることなく(せっせと・勤勉に)
※全て、後の「彼」にかかる。(cf. Ⓣ昼も夜もマインドフルネスにとどまる者を)
a+Tandita,(adj.) [pp.of tandeti=Sk.tandrayate & tandate to relax] weary,lazy,giving way Miln.238 (°kata).Usually a° active,keen鋭い・洞察のある,industrious勤勉な,sedulousせっせと働く

Taṃ彼 veこそ bhaddekarattoti,「賢善一喜(㋜日日(にちにち)是(これ)好日(こうにち)(日々を好き日となす者)・Ⓣひとりで生きるより良き道を知る者)」であると、 
santo心静まれる者(寂静者(じゃくじょうしゃ))は、 ācikkhate説く(言う) muni聖者は
Santa,1 [pp.of sammati1] calmed,tranquil,peaceful,pure

※そして以上のことを踏まえてここで、結論が出されます。すなわち、

このように暮らし、昼も夜も熱心にマインドフルである者、
彼こそ、「日々を良き日となす者」であると、心静まれる聖者は言う。

仏教的マインドフルネスの目的は健康になることでも、仕事を効率的にこなすことでも、はたまた超人になることでも、瞑想の上級者になることでもなく、ただ「一日を好き日となす」、ひいては「今、この時をすばらしい時となす」ことなのだということが優しく述べられています。きっと、どんなに実践がうまく行って、瞑想の上級者になったと思っても、このシンプルな原則を忘れないことが大切なのだと思います。そうすれば、傲慢になることも、自分を卑下することもなくなるのではないでしょうか。仏教的マインドフルネスのあり方とはこのようなシンプルな「しあわせ」を味わうことにあります。私自身、まだまだ道の途上ですが、このブッダのメッセージが少しでも誰かに届き、その人を幸せにする一助になれば、こんな嬉しいことはありません。
どうか皆様がお幸せでありますように。皆様の一日一日が良き日となりますように。お祈りしております。

南無阿弥陀仏 合掌 しょうもん

参考文献:
・貝谷久宣、熊野宏昭、越川房 編著、(2016)、『マインドフルネス 基礎と実践』日本評論社
藤田一照 執筆「仏教から見たマインドフルネス 世俗的マインドフルネスへの一提言」。
菅村玄二 執筆「マインドフルネスの意味を超えて 言葉、概念、そして体験」。
・伊藤雅之、(2016)、「世俗化時代のスピリチュアリティ マインドフルネス・ムーブメントを手がかりとして」
鎌田東二編『講座 スピリチュアル学 7巻 スピリチュアリティと宗教』2016年 ビイング・ネット・プレス
・片山一良、(2002)、『中部(マッジマニカーヤ) 後分五十経篇II』 大蔵出版
・アルボムッレ・スマナサーラ、(2016)、『「日々是好日」経―悩みと縁のない生き方― (初期仏教経典解説)』 サンガ
・増谷 文雄、(2012)、『阿含経典〈3〉中量の経典群/長量の経典群/大いなる死/五百人の結集』 ちくま学芸文庫:pp.212-221. 
・ティク・ナット・ハン著、島田 啓介訳、(2016)、『ブッダの〈今を生きる〉瞑想』 野草社
・中村 元訳、(1978)、『ブッダの真理のことば・感興のことば』 岩波文庫) 
・正田 大観訳、(2015)、『小部経典 第一巻 ~正田大観 翻訳集 ブッダの福音~ Kindle Edition』 Evolving 
・Thich Nhat Hanh (1999), The Heart of the Buddha's Teaching: Transforming Suffering into Peace, Joy, and Liberation , Random House, Inc.
・Rupert Gethin (2011) “On Some Definitions of Mindfulness,” Contemporary Buddhism, 12:263-279
・『Monier-Williams Sanskrit-English Dictionary』 1899
・『PTS Pali-English dictionary The Pali Text Society's Pali-English dictionary』 1921-1925
・水野弘元著、(2015)、『パーリ語辞典』 春秋社

参照ウェブサイト
・日本語版Wikipediaの「マインドフルネス」の記事
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B9
・英語版ウィキペディの「サティ」と「マインドフルネス」の記事
https://en.wikipedia.org/wiki/Sati_(Buddhism)
https://en.wikipedia.org/wiki/Mindfulness#alternative_translation
・ジョンカバットジンのインタヴュー
https://www.mindful.org/jon-kabat-zinn-defining-mindfulness/
・Bhikkhu Ñanananda (2005), Ideal Solitude An Exposition on the Bhaddekaratta Sutta,
https://www.accesstoinsight.org/lib/authors/nanananda/wheel188.html
・Thanissaro Bhikkhu (1997), Bhaddekaratta Sutta: An Auspicious Day, Alternate translation: Ñanananda
https://www.accesstoinsight.org/lib/authors/nanananda/wheel188.html
・ティク・ナット・ハンによるバッデーカラッタ経の英訳
https://plumvillage.org/sutra/discourse-on-knowing-the-better-way-to-live-alone/
・The Pāḷi Tipiṭaka:ビルマ版大蔵経を収録するサイト(https://www.tipitaka.org/)

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