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配信予定ヴィパッサナー瞑想の源流~『念処経:Satipaṭṭhāna-sutta』について~ ②    Lotus Radio#6

仏教やマインドフルネスを深く掘り下げつつ、その面白さをわかりやすくお伝えするラジオ 「Lotus Radio」第6回を配信しました!

 「ヴィパッサナー瞑想の源流~『念処経:Satipaṭṭhāna-sutta』について~」の第二回となります。
 今回からはいよいよヴィパッサナー瞑想=マインドフル瞑想の源流である、お釈迦様が説いた経典『念処経:Satipaṭṭhāna-sutta』の解説に入っていきます。

 前半では、ヴィパッサナー瞑想の目的と効果、そしてマインドフルネスを実践する上で最も基本となる「四つの気付きの基盤」を教える「総説」部分を取り扱います。
 後半では、瞑想の入り口とも言うべき「身体に対する気付き」の部を取り扱います。その中でも最初に説かれる「呼吸の観察」「身体の動きの観察」「日常動作の観察」は現在のマインドフルネス瞑想においても定番のプラクティスとなっています。皆様が触れたことのある有名な先生方の瞑想指導の原典、元ネタがあります。どうぞ二千五百年前にブッダにより説かれた瞑想のインストラクションをお楽しみくださいませ。

よろしければご視聴くださいませ。(下記のリンクよりご視聴できます)

※前篇

後編


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ヴィパッサナー瞑想の源流~『念処経:Satipaṭṭhāna-sutta』について~ ② (※略号:Ⓣ=ティク・ナット・ハン師 ㋜=アルボムッレ・スマナサーラ長老)

『念処経』総説 Ⓣ[2011:24-26]

ブッダがクル人の商都カンマッサダンマに在住していたおりに、私が聞いた説法。
ブッダは 「比丘たちよ」 と修行僧たちによびかける。
「世尊よ」 と彼らが応えると、ブッダは説きはじめた。
「比丘たちよ、 いのちあるものたちが浄められ、嘆き悲しみをすみやかに克服し、苦痛と不安を滅し、正しい道を歩んで最終的な悟りに達するための、 このうえなく尊い道がある。それは、 四種の 〈気づき〉 を確立すること(四念処)である」

・まず、この瞑想の目的が述べられる。
①いのちあるものたちの(心)を浄める。
②嘆き悲しみ(sokaparideva:自分の外側の出来事に対する苦しみ)をすみやかに克服させる。
③苦痛と不安(dukkhadomanassa:自分の内側の肉体的・精神的苦しみ)を滅する。
④正しい道を歩ませる(ñāyassa adhigama:正理〔正しいあり方・方法〕を体得する≒八正道を歩む)。
⑤最終的な悟りに到達させる(nibbānassa sacchikiriyā:涅槃を目のあたりに見る・体得する)。

・①~⑤のための「このうえなく尊い道」(Ekāyano maggo:一なる行道=唯一の道/一人で行く道/最上の道)=四種の〈気づき〉を確立すること(四念処)≒ヴィパッサナー瞑想

(経典の続き)
その四種とは何か?
比丘たちよ、修行者は、人生のあらゆる渇望や嫌悪感を捨てさり、明晰な理解をもち(ありのままに見て)、〈気づき〉を働かせ、入念に身体において身体の観察を続ける。
比丘たちよ、修行者は、人生のあらゆる渇望や嫌悪感を捨てさり、明晰な理解をもち(ありのままに見て)、〈気づき〉を働かせ、入念に感覚において感覚の観察を続ける。
比丘たちよ、修行者は、人生のあらゆる渇望や嫌悪感を捨てさり、明晰な理解をもち(ありのままに見て)、〈気づき〉を働かせ、入念に心において心の観察を続ける。
四比丘たちよ、修行者は、人生のあらゆる渇望や嫌悪感を捨てさり、明晰な理解をもち(ありのままに見て)、〈気づき〉を働かせ、 入念に心の対象(法:ダルマ)において心の対象の観察を続ける。

・仏教瞑想の真髄ヴィパッサナー瞑想の全てがこの短い経文の中に入っている!
・ヴィパッサナーとは「ありのままに、はっきりと観察すること」+「対象に深く入りこみ観察すること」
※「身体において(身体に沿って)身体の観察をする:kāye kāyānupassī」という表現の二重性
:「合わせる・沿う」→「入りこむ」→「身心一如」
・ではその深く入りこんで観察する対象と何か?―「今、この瞬間の出来事」 cf. マインドフルネスの定義
・その「今、この瞬間の出来事」をブッダは四つに分類する。 
cf. ブッダ=分別論者→ヴィパッサナー
→「四念処」:四つのマインドフルネスを確立させる場所(瞑想対象)・マインドフルネスの基盤となる場所
①身体
②感覚
③心(「知る」はたらき・情報処理機能)
④心の対象(瞑想実践に役立つ現象の性質)
・以下、さらにそれぞれの対象について「明確にはっきりと区別して観察する」方法が説かれていく。


①身体に対する気付き(身随観)
 
・身体に対する気付きは瞑想の入り口となる非常に重要なもの!→いくつかのパートに分かれる。
・その最初が「呼吸の観察」!
・どうして最初が呼吸なのでしょうか?―生きる・息・「自分の心」

⑴呼吸の観察(出息・入息の部)Ⓣ[2011:27-29]
さて、修行者はどのように身体において身体の観察を続けるのだろうか?
彼は森へ行く、そして木の根元や空き小屋に脚を組んで坐り 、背筋をまっすぐに保ち、〈気づき〉にそなえた心をその場に確立する 。

❶そして、息を吸うとき息を吸っていることに気づき、息を吐くとき息を吐いていることに気づく。
❷長く吸っているときには「長く吸っている」ことを知る。長く吐いているときには「長く吐いている」ことを知る。短く吸っているときには「短く吸っている」ことを知る。短く吐いているときには「短く吐いている」ことを知る。
さらに、 つぎのように瞑想する。
❸「息を吸いながら全身に気づく。息を吐きながら全身に気づく」(と訓練する) 。
❹そしてまた、「息を吸いながら身体を静める。息を吐きながら身体を静める」(と訓練する) 。

熟練した陶工は、ロクロをゆっくりと回転させるとき「ゆっくりと回転させている」ことを知り、速く回転させるときには「速く回転させている」ことを知る。それと同じく修行する者も、長く吸っているときには「長く吸っている」、短く吸っているときには「短く吸っている」、長く吐いているときには「長く吐いている」、短く吐いているときには、「短く吐いている」ことを知る。また、つぎのように瞑想する。「息を吸いながら全身に気づく。息を吐きながら全身に気づく」(と訓練する)。「息を吸いながら身体を静める。息を吐きながら身体を静める」(と訓練する)。

これが身体において身体の観察を保ち続ける方法である。このように身体の内や外から 、または内と外の両方から観察する。身体において物事が生じつつある過程や消えていく過程を、または生じ消えていく過程を同時に観察し続ける。さらに、理解と十分な気づきがもたらされるまで、「ここに身体が存在する」という事実を注意深く受け止める 。雑念にとらわれずあらゆる束縛を受けずに 、この観察を保ち続ける。比丘たちよ、これが身体において身体の観察を行う方法である。

・この赤字の部分、どこかで聞いたことがありませんか?そうプラムビレッジのガイド瞑想の言葉ですね。あれはティクナットハンさんの創作なのではなく、いわば経典の言葉そのままを引用しているのです。他の瞑想指導者はたいていもっと単純化したり、使いやすいようにアレンジしているので、ティクナットハンさんの原典主義が伺えます。―実際の瞑想でどのように使うのか、ちょっと鐘を招いてやってみましょう。

・さっそくヴィパッサナーの大原則「明確にはっきりと区別して観察する」が呼吸に対して適用されています。つまりただ漠然と呼吸を見るのではなく、以下の四つのファクターに分類して息を観察していきます。❶「吸っているのか、吐いているのか」
❷「息が長いのか、短いのか」
❸「息が入る時、出ていく時で全身の感覚にどのような違いがあるのか」
❹「身体中に散らばっていたエネルギーが呼吸に集まり、身体が静まっているかどうか」(㋜[2016:65])

・また、ヴィパッサナー瞑想の目的も語られる(この後も何度も繰り返される)。
=呼吸などの観察を通じて、この世界の生滅の法、つまり「無常・苦・無我・縁起」という真理を体得し、執着のない解放された境地に辿り着くこと(「集中」が目的ではない!)

⑵身体の動きの観察(威儀の部)Ⓣ[2011:30]
続いて、❶修行者は歩くときには「歩いている」と気づき、❷立つときには「立っている」、❸座るときには「座っている」、❹横たわるときには「横たわっている」と気づく。どのような場合にも、その身体の姿勢に気づく。
これが身体において身体の観察を保ち続ける方法である。このように身体の内や外から、または内と外の両方から観察する。身体において物事が生じつつある過程や消えていく過程を、または生じ消えていく過程を同時に観察し続ける。さらに、理解と十分な気づきがもたらされるまで、「ここに身体が存在する」という事実を注意深く受け止める。雑念にとらわれずあらゆる束縛を受けずに、この観察を保ち続ける。比丘たちよ、これが身体において身体の観察を行う方法である。

・歩く瞑想や立つ瞑想、座る瞑想、寝る瞑想(ディープ・リラクゼーション)の元ネタです。
・ここでもヴィパッサナーの原則を身体の動きに適用して、それを「❶歩く・❷立つ・❸座る・❹横たわる」の四つに「はっきり区別して観察」するよう教えられています。
・この四つの動きを仏教では「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)(四つの威儀(いぎ))」と言って、人間の身体の動きの全てを指します。よくお釈迦様が座る瞑想で悟りを開いたので、座る瞑想ではないと悟れないように思っている人も多いかと思いますが、お釈迦様の侍者のアーナンダさんは「横たわる」姿勢で悟りを開きましたし、お釈迦様の最後の弟子スバッダさんは歩く瞑想で悟ったと言われています。マハーシ式ヴィパッサナーの道場でも「歩く瞑想」は非常に大切にされています。たとえば、チャンミェ道場では座る瞑想の前に最低一時間歩く瞑想をしなさいと教えられるます。また、ここでも歩行等の観察を通じて「無常・苦・無我」を悟ることが大切です。つまり一般的に思っているように「自分が歩いている」のではなくて「心や体の作用によって体が自然に(勝手に)歩かされている」ということに気が付くことが眼目です(片山[1997:436]複註)。では続きを読んでいきましょう。

⑶日常動作の観察(正知の部)Ⓣ[2011:31]
続いて、修行者は前へ進むとき後ろへ戻るとき、その前進・後退にくまなく気づく。前を見る、後ろを見る 、 かがむ、立ち上がるときに、その動作にくまなく気づく 。法衣を身につけるとき、托鉢の器を携えるときにも、くまなく気づく。食べる、飲む、噛む、味わう 、このすべてに十分な気づきを向ける。排便や排尿の際にも、十分な気づきを向ける。歩く、立つ、横たわる、座る、寝ても覚めても、話すときも沈黙するときにも、あらゆることを気づきの光で照らす。

・食べる瞑想等の日常動作の瞑想の元ネタになります。私のいたミャンマーの道場(チャンミェ道場)でも「日常動作(daily activity)への気付き」は非常に大切にされていました。ご飯を食べる時は、スプーンや箸を持ち、お椀を持って、というところから一つ一つにラベリングをしていって、「口に入れる」「噛む」「味わう」「飲み込む」と細かく観察をしていきました(大体一回の食事で一時間はかかります)。プラムビレッジでも食べる瞑想はもちろんのこと、歯磨きの瞑想や皿洗いの瞑想(手洗い・顔を洗う・衣を着る・掃除・入浴・排便)なんていうのもありましたね。「排便や排尿」までも気を付けるというのも徹底していていいなと思います。まさに二十四時間、どこにいて何をしていても「自分が今、なにをしているのか」を「はっきりと明確に観察し、気付く」ことができれば、それが立派な「瞑想」になるんだということを経典自身が言っているのです。(もちろんヨーガのアーサナだって立派な瞑想になる。cf. David Swenson:moving meditation)


参考文献:
・片山一良、(1997)、『中部(マッジマニカーヤ) 根本五十経篇I』 大蔵出版
・小池 龍之介、(2012)、『「自分」を浄化する坐禅入門[増補改訂版]』 PHP文庫
・アルボムッレ・スマナサーラ、(2015)、『自分を変える気づきの瞑想法【第3版】』 サンガ
・アルボムッレ・スマナサーラ、(2016)、『大念処経 (初期仏教経典解説シリーズ)』 サンガ
・ティク・ナット・ハン著、山端 法玄・島田 啓介訳、(2011)、『ブッダの〈気づき〉の瞑想』 野草社
・ティク・ナット・ハン著、島田 啓介・馬籠久美子訳、(2015)、『ブッダの幸せの瞑想【第二版】』 サンガ
・チャンミェ・サヤドー著、影山 幸雄・影山 奨訳、(2018)、『気づきの瞑想実践ガイド(ブルーマウンテン瞑想センターでの法話集)』 サンガ
・Analayo (2004),Sattipatthana: The Direct Path to Realization, Windhorse Pubns
・Bhikkhu Sujato (2005), A History of Mindfulness,
(https://santifm.org/santipada/wp-content/uploads/2012/08/A_History_of_Mindfulness_Bhikkhu_Sujato.pdf)
・Bhante Henepola Gunaratana (2011) ,Mindfulness in Plain English, Wisdom Publications; Anniversary版
・『Monier-Williams Sanskrit-English Dictionary』 1899
・『PTS Pali-English dictionary The Pali Text Society's Pali-English dictionary』 1921-1925
・水野弘元著、(2015)、『パーリ語辞典』 春秋社

参照ウェブサイト
・日本語版Wikipediaの「九相図」の記事
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E7%9B%B8%E5%9B%B3
・英語版ウィキペディの「Maraṇasati」と「Memento mori」」の記事
https://en.wikipedia.org/wiki/Mara%E1%B9%87asati
https://en.wikipedia.org/wiki/Memento_mori
・Thanissaro Bhikkhu (1997), Maranassati Sutta: Mindfulness of Death (2)
https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/an/an06/an06.020.than.html
・セイロン所伝の僧伽分派説(法楽寺HP)
http://www.horakuji.com/lecture/sravakayana/ceylon.htm
・The Pāḷi Tipiṭaka:ビルマ版大蔵経を収録するサイト(https://www.tipitaka.org/)



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