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ヴィパッサナー瞑想の源流~『念処経:Satipaṭṭhāna-sutta』について~ ①    Lotus Radio#5


仏教やマインドフルネスを深く掘り下げつつ、その面白さをわかりやすくお伝えするラジオ 「Lotus Radio」第5回を配信しました!

今回からは新シリーズに入ります。
タイトルは「ヴィパッサナー瞑想の源流~『念処経:Satipaṭṭhāna-sutta』について~」です。
マインドフルネスの実践と言えば、なんといっても「瞑想」です!
よく「マインドフル瞑想」「気づきの瞑想」などと呼ばれますが、その核心は実は「ヴィパッサナー瞑想」にあります。
よく「ヴィパッサナー瞑想」と「マインドフルネス瞑想」が別のものだと思われている方がいますが、両者は実は同じものです。ただし、「マハーシ式」ヴィパッサナーや「ゴエンカ式」ヴィパッサナーが有名になってしまっているので、それも致し方ないことなのかもしれません。そこで、今回はお釈迦様が説く「本来のヴィパッサナー瞑想」が実はもっと広い意味合いを持ち、現在「マインドフルネス瞑想」や「ヴィパッサナー瞑想」の名の下に実践されている瞑想法のすべてを網羅し、それらの元ネタになっていること、そしてそれらの瞑想法の核心とも言うべきキーワード「ヴィパッサナー」について解説しています。

よろしければご視聴くださいませ。(下記のリンクよりご視聴できます)

レジュメも以下よりダウンロード可能です。よろしければご利用ください。

https://anchor.fm/naoki-matsumoto

※下記は註釈やコメントが表示できないため、フルバージョンのレジュメをご希望の方は、上記よりダウンロードをお願いいたします。

ヴィパッサナー瞑想の源流~『念処経:Satipaṭṭhāna-sutta』について~ ① (※略号:Ⓣ=ティク・ナット・ハン師 ㋜=アルボムッレ・スマナサーラ長老)

前回までのシリーズでマインドフルネスとは何か、またその源流である仏教的マインドフルネスとはなにかについて経典解説等も交えて詳しくお話いたしました。今回はいよいよ「マインドフルネスの実践」を取り扱っていこうと思います。
・マインドフルネスの実践と言えばなんでしょうか?―瞑想
・じゃあ、瞑想ってどうやるの?―様々な答え
・その方法どこで習ったの?どこに書いてあるの?—瞑想指導者の著作や指導
・以下、(座禅の)呼吸瞑想にしぼっていくつかの先生のガイダンスを紹介したいと思います。
⑴ティク・ナット・ハン師 Ⓣ[2013:22-30]

息を吸いながら、吸っていることに気づく
息を吐きながら、吐いていることに気づく (中略)
息を吸いながら、入っている息にほほえむ
息を吐きながら、出ていく息にほほえむ (中略)
息を吸いながら、入っている息が深くなるのに気づく
息を吐きながら、出ていく息がゆっくりとなるのに気づく (中略)
息を吸いながら、体を静める
息を吐きながら、くつろぐ
息を吸いながら、ほほえむ
息を吐きながら、手放す
今、このときにとどまる (中略)
今、このとき、すばらしいひととき  

⑵アルボムッレ・スマナサーラ長老 ㋜[2015: Kindle1870-1881]

次に、深呼吸をやめます。やめて何もしないでそのまま待ってください。 その間、「待ちます、待ちます……」 と実況するのです。この実況をしながら、全体的に身体の感覚を感じます。深呼吸という激しい運動をした身体 が、徐々に落ち着いてきます。さらに「待ちます、待ちます……」と実況しながら、下腹部に集中してみます。 そこで下腹部の感覚を感じます。下腹部が動いているという感覚を感じます。要するに、身体が自分勝手に呼吸することを始めているのです。身体が勝手に呼吸することを、修行者が下腹部で感じることができます。人によって胸に感じる場合も、鼻のあたりに感じる場合もありますが、下腹部で呼吸の感覚をとったほうが瞑想実践はしやすいです。それから下腹部に集中し続け ます。「膨らみ、膨らみ。縮み、縮み」と実況を続けます。おなか の膨らみ・縮みに言葉のタイミングを合わせ ます。「膨らみ、縮み」という実況中継に入ったら、呼吸のことを 身体に任せておいてください。呼吸を管理することはしないのです。ただ「膨らみ、 縮み」に合わせて実況中継 するだけです。これが座る瞑想の基本的なやり方です。


⑶小池龍之介氏 小池[2012:kobo呼吸に親しむお稽古:2-4]
「まずは息と親しむお稽古」 
次は、呼吸の流れへと向かって、心をそっと寄り添わせてまいります。(中略)いまは呼吸へ意識のセンサーを向け、息の〝吸う〟〝吐く〟にともなって生じている淡い身体感覚をスキャンするように感じとってまいりましょう。すなわち、「息の感覚そのもの」を見つけて、その感覚のうえに意識を乗っけてあげるような具合にいたします。頭の中を通り抜けていく〝考え〟というヴァーチャルなもののことは放っておき、鼻や胸に生じているリアルな感覚へと、心を密着させます。
 鼻先から空気が入ってくるのを、感じとってみる。その空気が流れてゆくのとともに生じる感覚の移動を、意識で追いかけてまいりましょう。鼻先から鼻のてっぺんまで入ってきた空気が、そこから鼻の奥へと下りていく。そして、のどを通り抜け、胸を膨らませたり縮ませたりしながら通り抜け、お腹まで向かっていきます。やがて自然に、吸う息が終わった時点で、今度は吐く息が始まります。
 お腹が縮むような感覚が生じると同時に、胸の筋肉も変化しはじめます。そして、再び鼻の頂点へ向けて上がってきた空気が鼻先を通りすぎ、息が出ていく変化を、意識で追いかけます。こうして〝鼻先→お腹へ〟〝お腹→鼻先へ〟という、何度も何度もいつ果てるともなくつづく往復運動を、淡々と見守りつづけます。  
(中略)その際、部分によってはよりハッキリと感じられるところもあれば、感覚がボンヤリしているところも、そしてまた感覚がわからない〝不感症〟のようなところもあることでしょう。けれども、感じるところは感じるままに受け取って進み、感じないところは感じないままに受け取ってそのまま意識を通り抜けさせるような具合に、淡々と取り組まれてくださいますように。感じないところに感覚を探し出そうと力む必要もありません。感じないところはイライラするので省略したくなるかもしれませんけれども、根気強く「ああなるほど、いまの自分には、この部分の感覚がわからないんだね」と柔らかく受け止めておくのが肝要です。 繰り返し繰り返し、平静さを保ちながら呼吸の経路に意識を向けているうちに、やがては不意に、身体の感度が高まって、いまとは違う感じ方になることに気付くことでしょう。

・表現・手法等かなり違って聞こえますが、「呼吸や感覚をありのままに観察する」という点では共通しているかと思います。
・では、これら指導者が教える瞑想方法の元ネタはどこにあるでしょうか?
→仏教経典『念処経:Satipaṭṭhāna-sutta』(中部経典10)
・ということで今回は『念処経』について取り扱います。

『念処経(四念処経)』のタイトルについて
・パーリ語ではSatipaṭṭhāna-sutta(サティ・パッターナ・スッタ)と言います。  
・Satiは前のシリーズで説明したのでもうおわかりですね?―マインドフルネス、気付きです。
・paṭṭhānaはわからないですよね?―「確立」、つまり(気付きを)しっかりとさせること、実践して根付かせる。ぐらつかない気付きの確立といった意味です。(※pa=upa:一緒に、向かって、近付いて)
・suttaはスートラ=経典という意味です。
→つまり「マインドフルネスをどのように確立させるか」ということを説く経典なのです。
(マインドフルネス=「気づきの瞑想」をどのような手順で行うかが書いてある経典)
・ちなみに漢文の経典では『念処経』(中阿含経98)と訳されました。「マインドフルネスを確立する場所」という意味です。それが四つあるため、『四念処経』と呼ばれたり、ティクナットハン師などは『四種の〈気づき〉を確立する経典』あるいは『四種の〈気づき〉の基盤(の教え)』という訳をしています。
・また似たような経典に『大念処経:Mahāsatipaṭṭhāna-sutta』(長部経典22)がありますが、内容・表現ともほぼ同じであるため、今回は取り扱いません。(ちなみに㋜[2016]は『大念処経』の解説書ですが、『念処経』にも全く問題なく当てはめることができます)

・さて、「瞑想」と言われて、どんなものが思い浮かぶでしょうか? 仏教に限らず、世界にはたくさんの瞑想法があります。ちょっといくつか挙げてみましょう
―アーナパーナ(呼吸)瞑想、マントラ瞑想、黙想『霊操』(聖イグナチオにより考案されたキリスト教の瞑想)、イスラームのスーフィズム、天台止観、岡田式静座法、超越瞑想(TM)やレイキ、そしてヴィパッサナー瞑想
→仏教で特に重要視されるのが「ヴィパッサナー瞑想」! 
・ティク・ナット・ハン師は以下のように述べています。 Ⓣ[2011:15-17]

瞑想とは、深く見つめ物事の真髄を見抜くことです。真実を見究め理解することから、心の解放、安らぎ、喜びが生まれます。怒りや不安や恐れは、私たちを苦しみに縛りつけるロープのようなものです。それから解き放たれたいなら、苦しみの本質である無智という明晰な理解が欠けた状態を、よく観察する必要があります。
(中略)ここでの第一段階は対象に気づくこと、第二段階はそれを深く見つめ、照らし出すことです。〈気づき〉 とは、目覚めていること、深く見つめることなのです。
本経典のパーリ語名「サティパッターナ・スッタ」の 「サティ」には、「止めること」「対象への気づきを保つこと」という意味があります。またパーリ語の「ヴィパッサナー」は「対象に深く入りこみ観察する」という意味で、この第二段階をさす言葉です。対象に十分に気づきながら深く観察するとき、観察する主体と観察される客体の境界線はしだいに消えていき、両者は一体になります。 これが瞑想の核心です。
対象に入りこみ、それと一体になるとき、はじめて理解が訪れます。対象の外にいて観察するだけでは不十分です。だからこそ経文では、身体において身体に気づき、感覚において感覚に気づき、心において心に気づき、 心の対象において心の対象に気づくように念を押しているのです。

・上記の言葉からもわかるように、いわゆる「気づきの瞑想」や「マインドフルネス瞑想」と言われるものの本質は「ヴィパッサナー瞑想」です。仏教で「瞑想」といえばまずこの「ヴィパッサナー瞑想」を指します。
・「ヴィパッサナー:vipassanā」の「ヴィvi-」は「(はっきりと明確に区分して」という意味であり 、「パッサナーpassanā」は「見る・観る」という意味です。つまり、普通の意味合いでなんとなく漠然と見るのではなく、「はっきり明確に区分して観る」というのが「ヴィパッサナー」の意味です。スリランカの高僧でアメリカでも広く活躍しているGunaratana長老はヴィパッサナーを定義して次のように述べています。
「ヴィパッサナーの完全な意味は、はっきりと正確に内観し、それぞれの要素・部位を区分・分離して見て、終わりまで徹底的に洞察し(洞察を貫通させ)、物事の最も基盤となる現実を覚知することである」
The whole meaning of the word vipassana is looking into something with clarity and precision, seeing each component as distinct and separate, and piercing all the way through so as to perceive the most fundamental reality of that thing. (Gunaratana [2011:27])
→ヴィパッサナー瞑想とは、現象をはっきりと正確に区分して観察することを通して、物事の本質=①無常:「あらゆるものごとは生まれては消えゆく無常なものであること」や②苦:「それに執着することが苦しみであること」や③無我:「私がコントロールできるものなどなく、私という存在も移ろいゆく根拠のないものであるということ」や④縁起:「この世の物事はすべて互いに依り合ってしか存在できないこと」などを洞察すること!
・では次回から具体的に「ヴィパッサナー瞑想」をどのように実践していくのか経典を読んでいきましょう。

参考文献:
・片山一良、(1997)、『中部(マッジマニカーヤ) 根本五十経篇I』 大蔵出版
・小池 龍之介、(2012)、『「自分」を浄化する坐禅入門[増補改訂版]』 PHP文庫
・アルボムッレ・スマナサーラ、(2015)、『自分を変える気づきの瞑想法【第3版】』 サンガ
・アルボムッレ・スマナサーラ、(2016)、『大念処経 (初期仏教経典解説シリーズ)』 サンガ
・ティク・ナット・ハン著、山端 法玄・島田 啓介訳、(2011)、『ブッダの〈気づき〉の瞑想』 野草社
・ティク・ナット・ハン著、島田 啓介・馬籠久美子訳、(2015)、『ブッダの幸せの瞑想【第二版】』 サンガ
・チャンミェ・サヤドー著、影山 幸雄・影山 奨訳、(2018)、『気づきの瞑想実践ガイド(ブルーマウンテン瞑想センターでの法話集)』 サンガ 
・Analayo (2004),Sattipatthana: The Direct Path to Realization, Windhorse Pubns
・Bhikkhu Sujato (2005), A History of Mindfulness, 
(https://santifm.org/santipada/wp-content/uploads/2012/08/A_History_of_Mindfulness_Bhikkhu_Sujato.pdf)
・Bhante Henepola Gunaratana (2011) ,Mindfulness in Plain English, Wisdom Publications; Anniversary版
・『Monier-Williams Sanskrit-English Dictionary』 1899
・『PTS Pali-English dictionary The Pali Text Society's Pali-English dictionary』 1921-1925
・水野弘元著、(2015)、『パーリ語辞典』 春秋社

参照ウェブサイト
・日本語版Wikipediaの「九相図」の記事
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E7%9B%B8%E5%9B%B3
・英語版ウィキペディの「Maraṇasati」と「Memento mori」」の記事
https://en.wikipedia.org/wiki/Mara%E1%B9%87asati
https://en.wikipedia.org/wiki/Memento_mori
・Thanissaro Bhikkhu (1997), Maranassati Sutta: Mindfulness of Death (2) 
https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/an/an06/an06.020.than.html
・セイロン所伝の僧伽分派説(法楽寺HP)
http://www.horakuji.com/lecture/sravakayana/ceylon.htm
・The Pāḷi Tipiṭaka:ビルマ版大蔵経を収録するサイト(https://www.tipitaka.org/)

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