マインドフルネスとは何か② Lotus Radio#3
仏教やマインドフルネスを深く掘り下げつつ、その面白さをわかりやすくお伝えするラジオ 「Lotus Radio」第3回を配信しました!
今回はいよいよ「仏教的マインドフルネスとはなにか」という問題に迫っていきます。そして後半ではその核心とも言えるお釈迦様の説く「今を生きる教え」の紹介をしています。
よろしければご視聴くださいませ。(下記のリンクよりご視聴できます)
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3仏教におけるマインドフルネス
:以上見てきた通り、現在の「マインドフルネス」は言葉の点においても、実践の点においても、その根幹に仏教があることは疑いえない事実です。ここでは仏教経典が説かれたインドの言語であるパーリ語やサンスクリット語でのマインドフルネスの意味や経典の教えによって仏教におけるマインドフルネスの意味合いを明らかにしていきます。
・「マインドフルネス」の原語=「スムリティsmṛti」(サンスクリット語)・「サティsati」(パーリ語)
①「スムリティsmṛti」(サンスクリット語):辞書的な意味は「思い出すこと」。
smṛti f. remembrance, reminiscence, thinking of or upon, calling to mind, memory
『Monier-Williams Sanskrit-English Dictionary, 1899』
②「サティsati」(パーリ語):「記憶」などに加えて「意識・集中・心の覚醒・マインドフルネス」などの意味がある(パーリ語は仏教でしか使わないので、定義が仏教寄り。ちなみにヨーガでもスムリティという言葉は使われるが、マインドフルネスというニュアンスはあまりない)。
Sati,(f.)memory,recognition,consciousness,intentness of mind(集中),wakefulness of mind,mindfulness,
『PTS Pali-English dictionary The Pali Text Society's Pali-English dictionary, 1921-1925』
→いずれにしても元々の意味は「思い出すこと」。ではなにを思い出すのか?
・そのヒントはマインドフルネスの中国語訳、つまりマインドフルネスを意味する漢字にある。
sati:f.[Sk.smṛti<sarati ②] 念,憶念,記憶,正念 『パーリ語辞典 水野弘元著』
・答えは「念」。この漢字には「今」と「心」が含まれる。
つまり、「今の心」を思い出すことが「マインドフルネス」。
「マインドフルネスを意味するサンスクリット語スムリティは、「思い出す」ことを意味します。マインドフルネスとは、現在の瞬間に戻ることを思い出すことです。マインドフルネスを表す漢字「念」は二つの部分―上の「今」という字と、下の「心」という字―で成り立っています。マインドフルネスの最初の奇跡は、今ここにいて、青い空や花、子供たちの笑顔に深く触れることができるということです。
(Thich Nhat Hanh 1999:90 ※筆者翻訳)
「マインドフルネスとは、意図的に、今この瞬間に、判断を加えることなく注意を向けることによって、生ずる気付きである」(jon kabat-zinn:https://www.youtube.com/watch?v=ULJSacYFzzQ&t=39s)
Mindfulness is awareness that arises through paying attention, on purpose, in the present moment, non-judgementally
※ただし、ブッダ自身はsati(マインドフルネス)が何かという明確な定義はしていないので注意が必要。あくまで複数の経典を合わせて読んで初めて、上記のような意味が浮かび上がってくる。またsatiは「思い出す」「憶念する」という意味で使われることもあるし、別の単語がマインドフルネスを意味することもある。例えば、manasikāra(作意:注意)やsampajañña(正知:正しくしること)など。また全く違う意味に思われるappamāda(不放逸:怠けないこと)やātappa(熱心さ・努力)も実質的にはマインドフルネスを指すことが多い。
・このマインドフルネスの真髄を端的に示してくれているのが、バッデーカラッタ経(中部経典131 Bhaddekaratta sutta)です。(バッデーカラッタの翻訳には非常に難しい問題があるので後述する。)
・どれくらい大事かというと152個のお経しかない中部経典の中で、連続4回もほぼ同じ内容のこのお経が繰り返されます。具体的には第131バッデーカラッタ経、第132アーナンダ・バッデーカラッタ経、第133マハーカッチャーナ・バッデーカラッタ経、第134ローマサカンギヤ・バッデーカラッタ経で、その教えの中核となる詩はなんと18回も繰り返されます。(まるで涼宮ハルヒの憂鬱のエンドレス・エイトみたいに…)
・この事実だけとってもこの教えが仏教の中でどれだけ大事にされてきたかがわかります。
・ちなみにテーラーワーダ仏教(南伝仏教)を奉じている国々、スリランカやタイ、ミャンマーなどでは日常的にこの経典が読まれます。ティク・ナット・ハン師の教団であるプラムビレッジでも最重要の経典の一つに数え上げられ、この経典を解説した本(『ブッダ〈今を生きる〉瞑想』)も存在し、その内容を元に「happiness is here and now(幸はいま、ここ)」なんていう歌まで作られて、歌われているくらいです。
・では早速どんなお経なのか見ていきましょう。重要なのは偈頌(げじゅ)(詩の部分)なので、そこのみ取り上げ、後ほど詳しい解説をほどこします。(タイトルは便宜上スマナサーラ長老の訳を採用します)
「バッデーカラッタ経(日日(にちにち)是(これ)好日(こうにち)経)」
過ぎ去れりを追うことなかれ
いまだ来(きた)らざるを念(おも)うことなかれ
過去、そはすでに捨てられたり
未来、そはいまだ到らざるなり
さればただ現在するところのものを
その場その場でよく観察すべし
揺らぐことなく、動ずることなく
そを見きわめ、そを実践すべし
ただ今日作すべきことを熱心になせ
たれか明日死のあることをしらんや
まことにかの死の大軍と逢わずというは、あることなし
よくかくのごとく見きわめたるものは
心をこめ、昼夜怠ることなく実践せよ
かような者こそ、日々を好き日となす賢者であると
心しずまれる聖者はいうなり
※増谷文雄訳をベースに筆者がアレンジ
「ひとりで生きるより良き道の教え(一夜賢者経)」※ティクナットハン訳(ティク・ナット・ハン 2016:20-21)
過去を追いかけず 未来に心を奪われるな
過去はすでになく 未来はまだ来ていない
まさに今ここにおいて いのちを深くありのままに見つめれば
その修行者の心は、不動そして自在にとどまる
今日を励みつつ生きること 明日を待つのでは遅すぎる
死は突然にやって来る それを避ける手立てはない
賢者は言う 昼も夜もマインドフルネスにとどまる者こそ
『ひとりで生きるより良き道を知る者』 であると
※下線部はティク・ナット・ハンの独特な訳。全体的に突っ込んだ解釈をしている。
Discourse on Knowing the Better Way to Live Alone(ティク・ナット・ハンの英訳原文)
“Do not pursue the past. Do not lose yourself in the future.
The past no longer is. The future has not yet come.
Looking deeply at life as it is in the very here and now, the practitioner dwells in stability and freedom.
We must be diligent today. To wait till tomorrow is too late.
Death comes unexpectedly. How can we bargain with it?
The sage calls a person who dwells in mindfulness night and day, ‘the one who knows the better way to live alone.’
Bhaddekaratta Sutta: An Auspicious Day(Thanissaro Bhikkhuの英訳「善き一日」)
You shouldn't chase after the past or place expectations on the future.
What is past is left behind.The future is as yet unreached.
Whatever quality is present you clearly see right there,right there.
Not taken in,unshaken,that's how you develop the heart.
Ardently doing what should be done today,
for — who knows? — tomorrow death.
There is no bargaining(取引・交渉) with Mortality & his mighty horde(大群).
Whoever lives thus ardently, relentlessly both day & night,
has truly had an auspicious day: so says the Peaceful Sage.
「バッデーカラッタ」経というタイトルについて
・経典のタイトルである「バッデーカラッタ」は様々な解釈が可能で、色々な翻訳がなされています。
・アカデミックなところだと、「一夜賢者」(増谷文雄)、「賢善一喜」(片山一良)などがありますが、これだけ読んでも意味が分かりませんし、古代の中国語訳では「跋地羅帝(バジラテイ:バッデーカラッタの音写)」(温泉林天經)となっていて、翻訳を放棄してしまっています。
・さすがに近代のお坊さん、それも一般の人たちに教えを説くお坊さんになってくると、もう少し意味のわかる翻訳をしています。たとえば、「ひとりで生きるより良き道の教え(Discourse on Knowing the Better Way to Live Alone)」(ティク・ナット・ハン)や同じような解釈の「理想的な孤独を愛する者の教え(The Discourse on the Ideal Lover of Solitude)」(Bhikkhu Ñanananda)、また、それらとは異なる解釈の翻訳として「善き一日経(An Auspicious Day)」(Thanissaro Bhikkhu)があり、日本にヴィパッサナー瞑想やテーラワーダの教えをひろめた大功労者であるスマナサーラ長老は同じ解釈を取りながら、それでは日本人に意味が分からないとして、この経と同趣旨の有名な禅の公案を借用して、「日日(にちにち)是(これ)好日(こうにち)経」と翻訳しました。
・なぜ、こんなにもたくさんの種類の翻訳があるのでしょうか? それには「バッデーカラッタ」という表現が、まるで禅の公案のように、謎めいていて、様々な解釈を可能にするからです。
・「バッデーカラッタ」をアルファベットで書くと、「Bhaddekaratta」となります。このパーリ語は三つの単語が組み合わさった複合語であり、「Bhaddaバッダ」と「ekaエーカ」と「rattaラッタ」に分けることができます。
・まず、「Bhaddaバッダ」は比較的意味が取りやすく、「賢い」とか「吉祥な」という意味です。これを「賢者」という風に取る場合もあります。
bhadda:,bhadra a.n.m.[Sk.bhadra] 賢き,吉祥の auspicious,lucky, good,happy,fortunate
・問題は次の「ekaエーカ」と「rattaラッタ」です。「ekaエーカ」は「一つの」あるいは「一人の」を指し、「rattaラッタ」は「夜」という意味と「(欲望に)染まった」という意味を持ちます。前者は「一夜=一日」として「(一)日」として訳されることもあり、後者は「喜び」や「愛着」と訳されることもある。(仏教では基本的に欲望に染まるのは悪だが、ここでは解脱・解放への良い欲望に染まる、つまり喜びと解しています)
ratta:① a.[rañjati の pp] 染色せる染着せる,貪染の,染心の.② n.[Sk.rātra] = ratti.rattā f.夜
・これを直訳して漢字に直すと、「一夜賢者」や「賢善一喜」というような訳語になります。
・「一夜賢者」を分かりやすく解釈すると「一夜(一日)を賢く過ごす者」(日日是好日)となり、「賢い」の代わりに「吉祥な」という訳語を採用すると「善き一日(An Auspicious Day)」となります。
・「賢善一喜」というのはわかりにくいが、伝統的な註釈によると「ヴィパッサナーの実践をきちんとしていることから、賢く・良い唯一の喜びがあること(者)」(片山 2002:136,475)と解されます。
・そして近代に出てきたもう一つの解釈として、「ekaエーカ・rattaラッタ」を「一人でいることを喜ぶ」と解して、「ひとりで生きるより良き道の教え(Discourse on Knowing the Better Way to Live Alone)」(ティク・ナット・ハン)や「理想的な孤独を愛する者の教え(The Discourse on the Ideal Lover of Solitude)」(Bhikkhu Ñanananda)という翻訳が出てきました。これは新機軸らしく、ティク・ナット・ハンもBhikkhu Ñananandaもかなり熱心かつ丁寧にどうしてこのように訳したのかを説明しています。(ティク・ナット・ハン 2016)( Bhikkhu Ñanananda 2005)
・具体的には、両者とも「長老経」という「ひとりでいること」とはどういうことかを説く経典の以下の箇所とと関連付けて解釈しています。ブッダは修行も飲食もいつも一人で行っている長老に下記のように語りかけます。
「あなたがひとりでいることを好み、孤独な暮らしを称賛し、ひとりで托鉢をしてひとりで家へ戻り、座る瞑想もひとりでするというのは 本当か?」
「世尊よ、本当です」、テーラは答えた。
「その暮らしはどんなものか?」、ブッダは聞いた。
テーラは答えた。「私はひとりで暮らし、ほかには誰もいません。孤独にとどまる修行を讃えています。ひとりで托鉢をしてひとりで家へ戻り、座る瞑想もひとりでします。これがすべてです」
そこでブッダはテーラにこう説いた。「あなたはたしかに、ひとりで生きる修行を好んでいるようだ。それを否定はしまい。しかしひとりで生きるために、さらにすばらしく深遠な道があることを伝えよう。」
過去はすでになく、未来はまだ来ない、欲から解放され今このときに安らいでとどまる—これを深く見抜き理解する道である。 このように生きる者は、心に一片の迷いもない。あらゆる不安や悔いを捨て、欲の束縛を解いて、解放をはばむ枷(かせ)を断ち切る。 これこそ『ひとりで生きるより良き道』 である。ひとりで生きるためにこれ以上の道はない」 (ティク・ナット・ハン 2016:16-17)
・このようにブッダはバッデーカラッタ経の内容を、「ひとりで生きる者(ekavihārin)」の道として提示しています。つまり、「ひとりで生きる」とは、物理的に孤独に暮らすことではなく、精神的に解放されている、つまり「欲望という連れ合い(第二の者)を持たない」ことを指します。ブッダはミガジャーラ経の中でそのことをはっきりと述べています。
「ミガジャーラよ、 もちろん比丘がそうした枷(かせ)に縛られるときには、森の奥に住み、誰もいない寂しい場所で何の障害もなく暮らしていても、彼はほかの者と一緒に生きている。なぜか?みずからを縛る枷を手放していないからだ。比丘が同居している者とは、 そうした枷のことである」
(ティク・ナット・ハン 2016:38)
A monk thus dwelling, Migajaala, even though he may resort to remote lodgings in the forest, where there is little sound, little noise, which are deserted of people and where one can remain undisturbed by men — lodgings fit for meditative seclusion — still, he is called "one-who-dwells-with-a-second." And why so? Because craving is his "second" (i.e., companion) and that is not abandoned by him. Hence he is called "one-who-dwells-with-a-second." (sadutiyavihāri) ( Bhikkhu Ñanananda 2005)
・ティク・ナット・ハンはこの「ひとりで生きること」=「ひとりで生きるより良き道(バッデーカラッタ)」をまとめて、次のように表現しています。
「ひとりで生きる」、 それは自分自身の主となること、そのときどきの状況から生まれる強い感情によって、過去に心を奪われたり未来への怖れにとらわれたりせずに、心が解放されているという意味です。あなたがあなた自身の主人であるとき、目前の状況をありのままに受け止めることができ、何が起こっても最善の対応ができるようになります。(ティク・ナット・ハン 2016:26-27)
・このような意味合いを込めて、この経典は「ひとりで生きるより良き道の教え」と訳されました。本質的で深い視点を含んだ良い訳だと思います。ただ私自身は、「ひとりで生きる」や「孤独」というのは上記のような説明なしでは誤解を与えかねないと思います。ティク・ナット・ハン師もそれを考慮して「ひとりで生きる」ということの説明を何ページもかけてしており、同時にサンガ(コミュニティ)の重要性を強調することも忘れていません(ティク・ナット・ハン 2016:50)。ですので、ただ単にこのお経のみを読むとしたら、そのエッセンスを単純に取り出して「日々を善き日となす教え」(日日是好日経)あるいは「善き一夜の過ごし方」などのように訳した方が読者に親切ではないかと思います。
また、「吉祥な一夜」には元々別の意味が潜んでいたという指摘もあります(Thanissaro Bhikkhu 1997)。つまり、古代インドに神々に吉祥を祈る一夜の祭りのようなものがあり、それを「吉祥な一夜(バッデーカラッタ)」と呼んだというものです。確かに、アーナンダやカッチャーナといったブッダの弟子たちは後代の人がこれほど悩んだ「バッデーカラッタ」という言葉にまったく疑問を持たず、受け入れています(他のお経ではわからない単語や表現をブッダに質問する例はたくさんあります)。ですので、ブッダが生きていた当時、この「バッデーカラッタ」という単語は当たり前のものとされており、それがその夜祭なのではないかと言われているのです。ブッダはよくこのような古い習慣や表現を仏教的に読み替えるということをよくやりますので、私にはこの考え方は非常にしっくりときます。そして、こんな光景が頭に浮かびました。ブッダが、夜通しかけて必死に祭りを執り行う人々を見て、「そんなことをしなくても、もっとずっと簡単に幸せになれる方法があるよ。ほら、もっと肩の力を抜いて、ただ今、ここに、もどってごらん、そうすればほら、毎日が本当の意味で善き日になるんだよ」と優しく語っている姿が。このお経はそうして生まれたような気がしてなりません。
参考文献:
・貝谷久宣、熊野宏昭、越川房 編著、(2016)、『マインドフルネス 基礎と実践』日本評論社
藤田一照 執筆「仏教から見たマインドフルネス 世俗的マインドフルネスへの一提言」。
菅村玄二 執筆「マインドフルネスの意味を超えて 言葉、概念、そして体験」。
・伊藤雅之、(2016)、「世俗化時代のスピリチュアリティ マインドフルネス・ムーブメントを手がかりとして」
鎌田東二編『講座 スピリチュアル学 7巻 スピリチュアリティと宗教』2016年 ビイング・ネット・プレス
・片山一良、(2002)、『中部(マッジマニカーヤ) 後分五十経篇II』 大蔵出版
・アルボムッレ・スマナサーラ、(2016)、『「日々是好日」経―悩みと縁のない生き方― (初期仏教経典解説)』 サンガ
・増谷 文雄、(2012)、『阿含経典〈3〉中量の経典群/長量の経典群/大いなる死/五百人の結集』 ちくま学芸文庫:pp.212-221.
・ティク・ナット・ハン著、島田 啓介訳、(2016)、『ブッダの〈今を生きる〉瞑想』 野草社
・中村 元訳、(1978)、『ブッダの真理のことば・感興のことば』 岩波文庫)
・正田 大観訳、(2015)、『小部経典 第一巻 ~正田大観 翻訳集 ブッダの福音~ Kindle Edition』 Evolving
・Thich Nhat Hanh (1999), The Heart of the Buddha's Teaching: Transforming Suffering into Peace, Joy, and Liberation , Random House, Inc.
・Rupert Gethin (2011) “On Some Definitions of Mindfulness,” Contemporary Buddhism, 12:263-279
・『Monier-Williams Sanskrit-English Dictionary』 1899
・『PTS Pali-English dictionary The Pali Text Society's Pali-English dictionary』 1921-1925
・水野弘元著、(2015)、『パーリ語辞典』 春秋社
参照ウェブサイト
・日本語版Wikipediaの「マインドフルネス」の記事
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B9
・英語版ウィキペディの「サティ」と「マインドフルネス」の記事
https://en.wikipedia.org/wiki/Sati_(Buddhism)
https://en.wikipedia.org/wiki/Mindfulness#alternative_translation
・ジョンカバットジンのインタヴュー
https://www.mindful.org/jon-kabat-zinn-defining-mindfulness/
・Bhikkhu Ñanananda (2005), Ideal Solitude An Exposition on the Bhaddekaratta Sutta,
https://www.accesstoinsight.org/lib/authors/nanananda/wheel188.html
・Thanissaro Bhikkhu (1997), Bhaddekaratta Sutta: An Auspicious Day, Alternate translation: Ñanananda
https://www.accesstoinsight.org/lib/authors/nanananda/wheel188.html
・ティク・ナット・ハンによるバッデーカラッタ経の英訳
https://plumvillage.org/sutra/discourse-on-knowing-the-better-way-to-live-alone/
・The Pāḷi Tipiṭaka:ビルマ版大蔵経を収録するサイト(https://www.tipitaka.org/)
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