映画感想『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』
友人のサイコパスと予定がなかなかあわず、少し遅くなりましたが、ジョーカーの二作品目を観に行くことができました。
1 本当に作りたかったのか
正直な感想を言うと、本当は二作品目なんて作りたくなかったのではないか、と思う作品でした。手を抜いていたというわけではないですし、画面のクオリティが低かったわけでもありません。
僕が感じたのは、逆張りの精神です。全員が期待していること、予想していること、考察していることは全部外してやるぞ、と言わんばかりの、ある意味での不貞腐れのような態度を感じたのです。
今作のジョーカーはあらゆる推察が飛び交い、あらゆる変化を余儀なくされますが、そのどれもに答えを出しません。つまり、そのどれもが正解ではないと言っているのです。二重人格説は否定され、とはいえジョーカーとアーサーが同一であると決まったわけでもありません。精神に異常があるように見せつつ、そういう見方を批判するような描写もあります。幼少期に原因があると匂わせ、いや大人になってからおかしくなったとの主張もあります。
僕たち大抵の視聴者は、ジョーカーのことを自分の考えの内側に取り込もうとします。ですがこの映画は、その考えを否定し続け、否定し続け、否定したまま終わってしまいます。先程も言ったように、逆張りです。その結果、前作にあったはずの、作品全体に伸びる一本の軸のようなものが見当たらず、映画を観ているよりも、全てNOとしか言わないQ&Aのコーナーを見ているような虚しさを感じてしまったのです。
というわけで思ったのです。本当は作りたくなかったのではないか、なんて。そう考えると、ラストシーンも、全てを否定して何もなくなったジョーカーに残っているのは、ジョーカーだったころにばらまいた狂気に感染した人間によって殺されることだけで、非常に自然だと思えます。
こういう逆張りの作品が悪いとは思いませんし、僕も最近全ての可能性を自分で潰していくような作品を書いたばかりなので、作りたい気持ちもわかります。ですが、今作に限っては、その気持ちが全面に出過ぎて、一貫性を失い、映画としての見ごたえや面白さを減らしていたと思います。
2 ただの恋愛?
ハーレイクイーンとジョーカーの関係が、ただの純朴な恋愛に見えてしまいました。
ハーレイはジョーカーに恋をし、ジョーカーに気に入られようと奮闘しました。一方のアーサーは、アーサーである時にハーレイに恋をし、ハーレイが望むジョーカーに頑張ってなっていたものの、上手くいかなくてアーサーに戻ります。それでもハーレイを愛していたアーサーでしたが、ジョーカーではなくなった者には興味がないハーレイ。
といった感じです。
あれだけ奇抜な恰好で、絶望的な環境で出会う二人ですから、もっと猟奇的な関係性を描けると思うのですが、思った以上にそれぞれの相手への気持ちがピュアで、わかりやすすぎて、ジョーカーの世界観にそぐわない青臭い感情が支配する恋愛模様だったと感じました。
二人の関係性は、これで、いいのでしょうか。
3 気になるところがたくさん
場面が同じ場所への繰り返しばかりで構成されること。同じようなミュージカル演出が映画中盤を支配していること。ミュージカルではレディガガの独壇場となり、演技パートではフォアキンの演技が飛びぬけてしまうアンバランスさ。法廷に押し寄せたジョーカー信者たち(つまり社会に排斥された人々)の扱いの雑さ。最後にアーサーを指す奴や、ハーレイが次にどんな行動をとるかなどがわかってしまう展開のありきたりさなど、他にも気になる部分が多々ありました。
つまらなかった、とは言えない恐怖や狂気をひしひしと感じもしましたが、やはりなんというか、無理矢理二作目を作ったんじゃないかという疑いの目が、終始僕の中に残り続けたのは確かです。
暗い気持ちになったわりには、見ごたえや考えさせられる深みがなく、やや残念でした。
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