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「なげいれ」の花 十一月のお稽古 #8
青山の「花長」という山野草・茶花を扱うお花屋さんの3階に、なげいれのお花の教室がある。
花人、川瀬敏郎先生のお弟子の林田英子先生のお教室だ。今年の6月から通い始め、半年になる。
「なげいれ」の花は、華道ではない。華道やフラワーアレンジメントのように型が決まっているものではなく、山に咲くように、野に咲くように花をなげいれていくやり方の花だ。
なげいれは、人の作為を嫌う。まだ生きている枝や、花、葉を切り落としたりしない。花を「いのち」として扱い、それそのものの美しさを引き出すことに全神経を集中する。
剣山や一文字(花器の口に横に渡して口を狭くし、花を立てやすくする枝の切れ端)を使うのも最低限しか行わない。剣山は、枝や茎を差し込むために使うのではなく、引っ掛けるために使う。あくまで「自然」に花や枝がそこにあるように。
なげいれの花を説明するときに、私はよく真行草(しん・ぎょう・そう)で例える。型が決まっている華道を真とするならば、茶花は行、なげいれは草。古典クラシックの音楽に対し、フリージャズみたいなもの、と言っても良いかもしれない。
型が決まっていない分、自分の軸が問われるところがある。「私はこれが好き」という軸。そしてもう一つ問われることとして、いかに自然に、花に寄り添っているか、ということがある。花に、自然に寄り添うーそれはその一部に、自分がなっているということだ。
この二つは実は相反する。「自分」が「そこにいない」方がうまくいく、けれど自分がそこにいなければ花を生けることはできない。そこに矛盾がある。川瀬敏郎先生もそのようにおっしゃっていたのを、どこかのインタビューで読んだ。
茶道もまた、「うまくやろう」と意識した瞬間に、無粋な手前になるか、間違えてしまう。美しくやろうなどと思わず、ありのまま、ただそこにいて、淡々と手が動くに任せて無意識に身を委ねる、これが茶道の目指すものだと思う。
茶道にしても、なげいれにしても、陶芸にしても、それを「芸術」と呼ぶことに、私は抵抗を感じる。なぜならそれは、自然という神様と、表現者が一体化した結果のものだから。表現物は、自然や神様から賜ったものであって、表現者は、それを現実の世界に落とし込む使いとなったに過ぎない。自分の力ではないのだ。他力本願、本来の意味は「自力」ではないということ。日本の伝統的なくらしの中に、他力本願はある。
とは言っても、私の花はもちろんまだ自力だらけ。花のいのちを生かせていない、と感じるものばかり。恥ずかしいけれど、記録としてここにアップさせてもらう。
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