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読書記録『お母さんの当事者研究』

『お母さんの当事者研究 本心を聞く・語るレッスン』熊谷晋一郎・当事者(お母さんたち)著(ちいさい・おおきい・よわい・つよい127)

ソフトカバーの単行本のような体裁だけど、『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』という子育て系雑誌の第127号。毎号ワンテーマの大特集があって、この号の「お母さんの当事者研究」という特集も128ページが割かれている。

公募で募ったという6人の参加者が、熊谷晋一郎をファシリテーターに当事者研究を行う。自己紹介→研究テーマ決め(自分が抱えている困りごとから1つ選んで研究テーマとする)→ペアでのワーク(参加者同士でペアになり、互いの困りごとをインタビューし合う)→発表という流れが時系列で書き起こされている。

初対面だという6人の参加者が、短時間の間にそれぞれのかなり深い部分について語っていることに驚いた。短い時間でどうしてここまでの語りが出てくるのだろう。研究テーマとした困りごとに関連した過去のできごとを、なるべく具体的に、そのときの細かなディティールまで思い出して語ることが重要というくだりがあるが、そのときに何か核のようなものが引き出されるのだろうか。この雑誌の読者同士というだけで生まれる連帯感みたいなものもあると思うし、ファシリテーターの熊谷晋一郎の力も大きいのだろう。

6人それぞれの人生が立ち上がってくる感じがあり、読んだあと、深い充実感があった。この感じは何かに似ていると思ったが、濱口竜介監督の『ハッピーアワー』を見たときの感じかもしれない。あの映画も、確かワークショップに参加した一般の4人の女性たちを主演に据えてつくられたものだった。

以下は、特に気になった箇所の抜き書き。これを読んで、熊谷晋一郎に興味を持った。『リハビリの夜』とか、いろいろ読んでみたい。

 いま子育て中のお母さん・お父さんをふくむさまざまな人たちのあいだで、当事者研究が必要とされるものになっています。
 もともと当事者研究というのは、精神症状や痛みなど、比較的見えにくい障害をもつ人のあいだで実践されてきました。なぜなら見えにくい障害は、障害があるのかないのかもわかりづらく、「困りごと」があるのは自分の努力不足のせいなのかそうでないのかもわからないからです。だれも正解を教えてくれないので、自分で研究する必要が出てきます。
 障害は、社会とのミスマッチによって定義されます。これは障害者が直面する困難に対し、障害者個人ではなく、健常者を基準につくられている社会の側に障害があると考える「社会モデル」の考え方ですが、社会とのミスマッチが生じるのは、体が変化したとき、社会が変化したとき、そのどちらかです。
 いま、社会やくらしは急速に変化しています。すると、社会とのミスマッチもいたるところで起こりますから、社会モデルの定義でいえば、障害者となる人も当然増えることになります。これはそうとうな数だと考えられます。体は変化しなくても、社会の変化によって、気づかないうちに人は障害者になることがあるのです。
 こういう人たちはいわば見えにくい障害をもっていることになるわけですが、自分では障害があるかどうかもあやふやで、困難を語る言葉も見つからない。
 子育ての場面においても、社会の急速な変化によってこれまでのスタンダードなスタイルをまねることができなくなり、そのなかで説明しがたい困難を抱えこんだ人たちが、その困難の帰属先がわからず自分を責めてしまっている。
 そういうことが、いま起こっています。
(P17-18 熊谷晋一郎 はじめに いま、どうして当事者研究が必要なのか)
ひろこ 長男はあいさつをしなかったとき「したくない気持ちだから」といいましたが、これが第三者のこどもだったらそれを肯定できると思うんです。でも自分の子だとそれができない。
 息子の気持ちに直面することで私がこどものときに蓋をしていた感情があふれてしまうから、私はなにもいえなくなり、「この気持ちはだれがひきとってくれるの?」となってしまうんです。(P97)
りえ こちらがこうだったのかなという質問に対して、「いやそうじゃない」「わからない」というので、聞きだす言葉の難しさに気づきました。自分も同じような状況になったら、こんな思いがあるのではないかと思って聞いてみるのですが、私のひきだしのなかのどこにもないものがみえさんのなかにたぶんあるので、私が一人ではなかなか聞きだすことはできないのかなとも思いました。
熊谷 大事なポイントですね。じつは当事者研究は数がすごく大事で、一対一の面接室の限界から生まれた技法なんです。どんなにすぐれたカウンセラーでも人生のキャパには限界があるので、たくさんのグループでいろいろ言葉を交わして、はじめて出てくるものがあります。
 今日は一対一でやってみましたが、じつは本番はこれからというか、みんなでシェアすることで言葉が見つかってくることがあります。(P107-108)



子どもに対しての叱りの言葉が、実は子どもに向かってはおらず、周囲に対して「私はきちんと子育てしていますよ」とエクスキューズする目的のために発せられることが多いと苦しんでおられる参加者がいて、「ああ、わかる…」と思った。

私もそうだ。子どもに向けられたふりをして、世間に対して発せられた空虚な言葉。多分もう数えきれないほど発している。そのたびにナイーブに落ち込むわけではない。いちいち落ち込んでいたらやっていられない。けれど、「ああ、この言葉は子どもに向かってはいない」と気づいてはいて、それが積もってくると、つらくなってくる。

鳥羽和久『おやときどきこども』の以下の部分にも同じようなことが書かれていて、心に刺さった。

「つじつま合わせのせいで、子どもに迷惑をかけてはいけませんね。」
 先日、近くの小学校に哲学の話をしに行ったとき、あるお母さんが喉の奥から絞り出すようにそう言いました。彼女は二週間くらい前に、昼間の空いた電車の中をいきなり走り始めた五歳の息子に「走っちゃダメよ」と言いました。そのとき、彼女はふいに「これは自分の言葉ではない」と感じ、打ちのめされたような気持ちになったそうです。―私はいま周りの目を気にして子どもに声を掛けた。それは、子どもにダメと注意できる親であることを示すために発した言葉だ。―こうやって世の中に合わせて子どもに自分のものではない言葉を掛けたことを、彼女は「世間とのつじつま合わせ」と呼んで、それは子どもに対して不誠実なのではないかと自分に厳しく問うていました。(P227)

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