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アイデンティティを自分で定義する

帰国子女として育った私はアイデンティティ基盤が脆弱です。「ふるさとはどこ?」という質問は苦手です。家族は日本人だし、今となっては最も長い年月を日本で暮らしているけど、幼少期に日本に帰国したときに直面した逆カルチャーショックと、そんな私への同級生の戸惑いから、私の「日本人としてのアイデンティティ基盤」が崩れ落ちました。

「日本人になりきれない」「胸を張って言えるふるさとがない」痛みを抱える私にとって、「そっか私にとってふるさとは世界なんだ」と認識できたことは大きな納得感と安心感を与えてくれました。

以前書いたnoteからの抜粋で、これは私の個人的な体験です。

所属欲求(しょぞくよっきゅう)とは、その人物が、その集団に所属して生活したい欲求を指す。アイデンティティーとも呼ぶ。所属先は、世代であったり、血縁集団であったり、国家であったり、民族であったり、多種多様である。

所属欲求は人間の基本的な欲求の一つなので、私にとって、海外に行ったら日本人に見られるのに(つまり外国人の仲間入りができるわけでもなく)、日本に帰ったら「日本人らしくない」とレッテルを貼られ続ける体験は痛みそのものでした。

これまで実に20年弱(!)かけて色んな出来事を咀嚼し、悩み、海外の知見にも頼りつつ、やっとやっと「アイデンティティ?」という不安感に対する落としどころが見えてきたので、情報をまとめておきます。どこかの誰かの参考になることを願って。

Third Cuture Kid (TCK) とは

英語の文献では、私のような体験をした個人はThird Culture Kid (TCK) と定義され書籍も出版されています。

Third culture kids (TCK) are individuals who are (or were as children) raised in a culture other than their parents' or the culture of their country of nationality, and live in such an environment during a significant part of their early development years.
TCKとは、親の文化や自分が有する国籍の文化の外で成長期の多くの時間を過ごした個人のこと。


私が経験したアイデンティティクライシスは、TCKには共通に見られる体験のようです。

Common personal characteristics of TCKs
・ Large world view
・ Language acquisition
・ Can be cultural bridges
・ Rootlessness—“Home” is everywhere and nowhere
・ Restlessness
・ Sense of belonging is often in relationship to others of similar background rather than shared race or ethnicity alone
TCKに共通して見られる特徴の一つとして、“ルーツがなく「ホーム」がどこでもありどこにもないこと”が挙げられています。

もしあなたが同じような痛みを抱えていて、「帰国子女としての体験」を共有できる友人や家族がそもそも周りにあまりいないなら、TCKの文献に触れてみるのはお薦めです。自分と同じ悩みを抱えている人が世界中にいるんだ、自分の悩みは誰かと共有できるものなんだ、と気づくだけでも安心感があります。日本語で帰国子女について調べるよりも、英語でTCKについて調べた方が豊かな情報源にアクセスできるというのもメリットです。


なお、さらに定義の範囲を広げて、国際結婚の夫婦の間に生れた個人や、移民・難民などを含めて、成長期に複数の文化の影響を受けた個人を広くCross-cultural kid (CCK) というようです。

自分の出自や所属コミュニティが定まらない苦悩という点で、私も個人的にハーフ*の友達の悩みにはとても共感していたので、CCKはより広く同じ悩みを抱える人々を包含する定義だなと感じました。
(*最近ではダブル、ミックスルーツという言葉で表現されますが、当事者の友達と話すときも「ハーフ」という単語を使っていて本人は違和感がないようなのでここではハーフと表記します。)

例えばヨーロッパと日本のハーフの友達と日本で再会したとき。お手洗いでその子がぽつりと言った言葉。

ヨーロッパにいるときは、鏡を見る度に自分の顔がなんて平べったくてアジア人なんだろうってずっと思ってたけど、今鏡見てびっくりした。日本人に囲まれて鏡を見ると、私の顔ってすごいガイジンに見えるね。

表出の仕方は違うけど(帰国子女:ex 日本人なのになんで日本の常識を知らないの?/ハーフ:ex 見た目が違う)根本にある所属欲求が満たされない痛みは共通してると捉えています。


あるがままの自画像(アイデンティティ)を自分に与える

私がやっとやっと見つけた落としどころは、「私は私、ふるさとは世界」という自画像です。あるがままの自分を受け入れて、自分が心地よい自画像とアイデンティティを自分で定義することに決めました。

若い頃は「日本人とは何か(どうやったら私は日本人になれるのか)」について涙ぐましい研究を重ね、でもなぜか定期的に「あなた日本人らしくないよね」と言われては家でこっそり泣いていました(それは誉め言葉だったかもしれないのに)。

「私は私」でいいや、と思えたのは20年弱の咀嚼の集大成なのですが、きっかけは大きく分けて二つあります。

まず、「自分は他人と相対するときにその人の国籍でもってその人となりを判断しないのに、それを自分に課すのはおかしい」と思うことにしました。
人間は国籍によって全てが規定されるほど単純な存在ではなく、その人が何者であるかを形作っているのはその人の人生を通じた体験の積み重ねのはずです。人間はもっと立体的で多面的で奥深い存在だから。その人間観を自分にも当てはめるならば、日本人から見たら日本人らしくない自分も、外国人から見たら十分日本人らしい自分も、どちらも私。特定のコミュニティへの適合度合いではなく、自分の体験をベースに自分のアイデンティティを立脚し、受け止めよう。そう思えるようになりました。

もう一つ、そもそも私が執着していた「日本人」も多様な存在であり「普通の日本人」というのは幻想に過ぎないと理解したことも大きかったです。学生時代に日本中を旅して、日本の中にも地域的な多様性があることがわかり、友人と深く話し込んで「日本人の中にも多様な考え方が存在するんだ」ということを発見したことで、「普通の日本人」に自分を当てはめる作業のナンセンスさを自覚しました。

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「ふるさとは世界」に関しては、ふるさとを自分が一定期間過ごして愛着を持っている場所だと捉えれば、「ふるさとが沢山ある」のは豊かなことだなと思えるようになりました。さらに、成長期に世界中の友人と交流したことで、色んな世界の色んな考え方を知っていたり内面化していたりするし、どこの国に行っても多くの場合「友達の出身国」だったり「友達が今住んでる国」だったりするのでどこか身近に感じます。世界全体がいとおしい。だから自分が排除される恐怖心からふるさとをないものにするのではなく、自分の中にある愛着に素直になり、広くふるさとを捉えよう。そう思えるようになりました。

*****

「あなたは何か少し違うね」と言われ続ける小さな体験の積み重ねは自分で自覚している以上に根深い傷となって私の中に蓄積していました。「等身大の自分を受け入れ、アイデンティティを自己決定する覚悟を持った」、ということに過ぎないのですが、私にとってはそれが何よりもパワフルな転換点でした。

以上はあくまで自分なりの現時点の結論を共有したものになりますが、TCKによって体験はそれぞれ本当に多様だと思います。あなたにあった、あなたが居心地を良く感じる形でアイデンティティ問題と決着をつけられることを祈っています。

参考になったTED talk

最後に補足として、TED talkから心に残った言葉も抜粋してご紹介します。

We have the ability to self define who you are. Break stereotypes, be your unique self.
あなたが誰であるかは自らが定義すれば良い。ステレオタイプを破って、唯一無二の自分であろう。(意訳)


I take my difference to make a difference.
私は人と違う強みをむしろ使って、変化をもたらすんだ。(意訳)


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