【時間3】時を感じることを大事にしたい
今日は、時間と感じることについての投稿です。
#時間環境問題 という切り口での1本目の記事から始まり、2本目は空間からの解放と時間の縛りという内容で書きました。
言葉中心に書いてきたのですが、あくまで私は自分の「時」を感じることが何よりも大事だと思っています。時と時間の区別は改めて、何度も出てきていただいている松島さんの分け方に習います。
「時」とは、それ自身が持っている固有のリズムを意味することにします。太陽のリズムを太陽の時と呼び、地球のリズムを地球の時と呼び、僕のリズムを僕の時と呼びます。ここでのポイントは、それぞれのリズム(時)は異なるから、実は時は1つではなくて、たくさんの時が存在するということです。
『時間学、はじめました。人類はどのように時間を認識してきたのか。』
思考をすることの限界
私は時間にまつわることをつらつら書いていますが、それは時間というものを全くの一面でしか捉えることができないものだと思っています。基本にあるのは、「時を感じる」ということです。自分自身の命のリズムを感じること、と言ってもいいかもしれません。
時間環境問題の記事にも引用したミヒャエルエンデの「時間」をテーマにした小説の『モモ』より、登場人物の時の番人の言葉をお借りすると、
光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある」
という捉え方が好きです。
そもそも時間はあるのか、心はあるのか?という話になると、もはや哲学や物理学の領域に絡まってしまうと思うので、私はあくまで自分の時間観、および時間についての考察や取組みをお裾分けするというスタンスで物語っていこうと思います。本当に客観的な時間についての語りをすることは、私にはできません。
さて、時を感じるのが大事と書きましたが、それは皆さんのリズム感覚を大事にしてほしいと思っているからです。私の時の感覚と皆さんの時の感覚は異なります。それを大前提にしたい。
思考をするということは、意味の分節を作っていくこと
思考をするということは、意味の分節を作っていくこと、ということだと思っています。時間について思考するということは、時間という色付きのメガネをかけるようなものです。それは時間とは何か?という物の観方が反映されますので、ある種、時間を本当に捉えたかったら、「時間」というメガネを外して、ありのままに見る、ということが必要になります。
この前、京都大学の研究者・実践者である種村文孝さんに話題提供いただき、時間を探究するワークショップを実施しました。種村さんがおっしゃっていて、なるほど!と思ったのがこちらの観点です。
・生涯教育の観点から見ると、赤ちゃんは未分節の時間を生きていると言える。成長するうちに様々な経験を通し、世界を分節化していく
・学校や他者との関わりの中で、意味を学んでいく
分節化して物を見るということは、世界から意味を見出すこと、と言ってもよさそうです。つまり意味ある時間を見出していくためには、自分自身が意味を見い出す能力を鍛えていくという方向性に向かうということが一つの解になります。
そこではとっても思考することが大事なんですよね。あるがままの現象を分けていくことによって、意味を見い出すことができ、それを巧みに共有しながら他の人と社会生活を送ります。私自身もこのように書くことで時間というレンズ、見えている世界を分節化して、意味を見出し、共有しています。
ただ、その意味を見い出すということ自体は、現実をありのままに捉えたことにはなりません。意味付けをするということだけでは見えてこないありありとした世界の有様が、私たちを包んでいるのではないでしょうか?
ちなみに種村さんとのワークショップの音源は、Transit Library の方にアップロードしています。作業でもしながら、ぜひ聞いてみてください♪
意味の分節に囚われてしまう
分節化することはとっても大事なことです。社会を作っていく上では。さらに情報化社会では、意味の共有はとっても大事です。意味、意味、意味、意味、そういう意味のネットワークが張り巡らされています。
そうすると起こるのは、意味の分節に囚われることです。時間という分節も例外ではありません。これが自分の時のリズムと著しくずれたものに対して合わせ続けるということが続いていくと、疲弊していくのではないかなぁと思います。
逆に意味の分節を作り出していく方に回る、ということも一つのアプローチです。
たとえば経営者になって、お金を循環させ、他の人たちの時間をいただきながら、より良い価値を社会に生産していくということを行うこともできます。個人事業主になるという選択肢もあります。いわゆる自分の時間の使い方を"決めやすい"人たちです。もちろん会社に所属しながらも、極めて自律的に行動している人たちも世の中にはたくさんいます。会社で成果を出しながら、そこの時間感覚にひきづられないようなスタイルを作り出している人たちはすごいなぁと思います。
こっちの方がより良いのだ!というのは、一面的には Yes ですが、他の視点に立つと、Yes だけどそれだけではないアプローチもあるのではないか?と思います。
意味の分節から自由になる時間を過ごし、時を感じる
それで大事だなぁと思うことが、感じることです。
意味の分節の中でがんじがらめになってしまった時に、自分自身の感覚に降りていきます。元々、生物として、動物として、自分自身が刻んでいるリズム感覚があります。心臓の鼓動はわかりやすいものですね!
自分自身の感覚は、それに名前(意味の分節の一つの形態)をつけずとも、わいてきます。いやな感覚が湧いた時、ついついそれをなかったことにしたくなりますが、そのような心的作用が生じていくこと自体を受け入れていくことができたら、とってもいいですね。
さらに、自分自身と外界との関わりも同時に感じるといいかもしれません。自分を感じるということは、内側を感じるということを必ずしも意味せず、外側を感じることでもあります。内側も外側も同時に感じていく。つねに内側と外側はインタラクションがあるので、それ自体を楽しんでいけるといいなぁと思っています。
そういう感じる時間がもたらすことは、私たちが未分節であってよい、という感覚の醸成です。感じることを大事にしていくと、自分の身体の静寂と音の営み(秩序)を感じることができるようになっていきます。
それが時の自覚なのではないか?このように私は考えています。
時を大事に、時間を再創造する
感じるということをベースに時を大事にしていくことが習慣化していくことで、自分のペースを自覚する。そして、他の人たちとの時の共有ができると思います。その際にはマイペースを頑なに守るのではなく、相手の時を感じる心を大事にしたい。
自分と同じように、相手も生きています。自分の時を大切にしたいなら、相手の時も大事にするというスタンスで「間」を大事にした周りのものとの関わりをしていくのがいいのではないかなと思っています。
「間」は常に流動的で、時と時の間に流動化した「ある」し、「ない」ものが時間だと考えます。
関わる人によって共有する時間が異なり、時間は早くもなったり、遅くもなったり、さまざまな時間を生きることができるのではないかと思います。
さいごに
時を感じる時間を大事にしたいと思い、最近、フィールドレコーディングを始めました。
意味の分節から降りた時間を作ることは私にとってはとても重要なことで、私なりの実践として、楽しんでいけたらと思っています。
6月末に東大寺に行った際にレコーディングした音源を共有して、この記事を終わりにします。
私自身も時にまつわる修行の日々です。笑
時を感じる時間をどうぞ大切に。
それでは!
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