身体は正直に物語る
「言葉が得意だよね」
そう言われる時が時々あります。
むしろ以前は苦手だったんだけどね。
この言葉を言われるたびにそんなに得意っていうわけでもないのになぁと思ったりします。
あと、ここ半年くらいで、どんどん自分にしっくりこない言葉を手放してみようとしてきました。なぜかというと、するすると出てくる言葉が自分の奥底に感じていることにストレートにたどり着かず、遠回りして核心に触れるか触れないかのところをクルクルと回っているような感覚になるんです。
そして、最近には、身体への興味が芽生え始めました。演劇的なワークショップや元俳優の方との関わりの中で、「身体的な感覚」に意識が向かってきています。
遠い昔の記憶
そういえば、小さい頃、言葉がとても苦手で、率直に身体の動きに従っていました。
小学校2年生の頃、どうしても学校に行きたくなくて、不登校になった時期がありました。
親に無理やり車に入れようとさせられた時、無言で必死に抵抗していました。「なんで学校に行きたくないの?」と言われても本当にうまく答えることができなくて、心の中ではただただ気まずさと苦しい感覚が広がっただけ。
言わないのではなくて、言うことができないという感覚。
身体は学校に行くのを拒否してた。
身体はとても正直でした。
それから時間が経って、それを無理やり動かすようになったのかもしれない。
“身体をイメージに合わせる”から”身体とイメージが共にある”へ
最近、やりたいことがわんさか湧いてきて、身体が追いついていない感覚があるのですが、昨日気付いたことは、頭の中で展開するイメージに身体を合わせていこうと思っているのだなと思いました。
それを続けていくと、どこかの時点でエネルギーが枯渇して、動けなくなってしまうかもしれないという恐れが出てきました。
実は9月くらいにパタっと症状が無くなったのですが、それまでずっと鬱(の軽いVer. →気分変調症に悩まされてきました。)
ダウンしている時には本当に何もしたくなくなるんです。
仕事しなくちゃいけないとか、そういうのがあっても身体が動かなくなってしまう。
こういう状態になった時には身体を動かすのが本当にしんどくて、ベッドの上に半日以上転がって、YouTube を動画を見続けて、「何やってんだろ、俺」と自己嫌悪に陥ります。
泥沼の中にズブズブと吸い込まれていくような。何かに蝕まれていく感じで、自分の皮膚の表面がミシミシと黒くなって重力の中に閉じ込められてしまうような感覚で埋め尽くされます。
そういうふうに調子が悪くなっていく時には、頭の中で展開する何かに従おうとする傾向が強かったからなのかもしれないなぁ。
こんな作品を作りたい、こんな活動をしたい、これをやろう、あれをやろうとイメージが進んでいくけれど、それを身体でありありと感じたい。イメージに身体を合わせていくのではなくて、イメージを宿した身体が常にあるという状態にしたい。
身体にイメージが降りてきていてそれがフィットしていると、身体がいつのまにか動くような感覚を得ることがあります。そのイメージが少し頭の中で先走りしてしまって、身体が置いてけぼりになっていくと、それが積み重なって、枯渇したような感覚になってしまうのかもなぁ。
身体のこと、まったく扱ってこなかったもんだから、メンテナンスするのに何をやってみたらいいのやらと思って、昨日は彼女に相談してみました。
彼女はより身体の心地よさ、整っている感じが重要だと認識していて、これまで「ふ〜ん」くらいに聞いていました。
でもこの身体的な感覚をより活かしてやっていくことができると、エネルギーが無限に湧いてくるようなモードに入れる気がしているので、素直にわからないから教えてもらおうと思います。(笑)
言葉にならないという感覚の中を生きるのもいいものですね。
ただ意味付けせずに、イメージとともに身体的に生きていきたいな。
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