苦を滅する方向へとお布施を巡らせていくことを意識する
前回Noteの記事を書いた。お金をどう巡らせていくのか?という内容の話だ。
お布施の実験をやってみよう!と思い、100日が経った。お布施は「物事への執着を手放す修行」で施しでもある。1人でお布施はできない。人か、もしくは人ではない何者かという他者が必要だ。
実験をし始めて50日は、お布施をするということの方向性をあまり意識していなかった。50日目以降から100日目くらいにかけて、徐々に感覚が変化し始める。
お布施といっても色んなものがあるので、ここではお金(財施の一種)に絞って考えてみる。お金を巡らせるためには、お金に執着しすぎないスタンスが大事になる。執着していると手元に残ることになる。手元に残っていることに対して、これがなくなったらやばいという欠乏の感覚が起こる。
一方で巡る際には、欠乏というよりも、満たされているという充足の感覚が起こる。手元から無くなるのにも関わらず、「充足感がある」のだ。面白いよね。
さらに面白いのだけど、手元にはないのだけど、お金はつながりの中で立ち現れてくるからきっと大丈夫👌と感じていると、また他の人から巡ってくることが増える。受け取るモード、喜びとともに贈るモードが調えられていると、お金の扱いは嫌悪するものではなく、喜びに溢れたものになる。そんなことを最近感じることが増えた。
さて、本題に入ろうと思うのだけど、この際、お布施を巡らせるという時に、方向性を考えるのは大事だと思うようになってきた。お布施である以上、自分の手元から離れていったお金をコントロールしない。してしまう時は、他者への執着か、相手にわたったお金への執着が隠れている。きちんとお布施になっていれば、どう使われようが気にならないはずだ。
だけど、資本主義文化が盛えている現代社会でお布施をする時には、少し工夫が必要だと思った。お金を巡らせていく相手が、エゴに走らず人の苦しみを緩和するために動く人かどうかや、地球環境を大事に思い動く人なのか?という点など、渡した先により良いことが起こっていく方向に流したい。
どうお金を巡らせて?ということは、学び続けていく。何よりもお金を巡らせる自分自身こそがエゴに囚われやすく、苦しい色のついたお金を巡らせかねないのだけど、これも学び、だね😌
巡らせていく方向が縁の中で自然と決まっていく。そうなると心地よいだろうなぁ。巡らせていく方向を意思決定しようとしている力みが取れていく日が、楽しみだ。
縁が増えるお金の巡り、生き金
そうそう。言い換えるなら、今学んでいってるのは「縁が増えるお金の巡り方」について。人との関係が生まれたり、物を大事にしようと思えたり、そういうお金の巡らせ方。つまり生き金とはなんぞや?ということを考えてるみたい。
少しずつ、実体験の中から学んでいきます😌