本を読むと身につくもの
こんばんは。最近本の話ばかりしている気がします。神田古本まつりは短時間しかいられませんでしたが、それでも大きな刺激を受けました。今年はたまたま神保町の用事と、古本まつりが重なっただけです。来年以降も「わざわざ」行くことが濃厚でしょう。
さて、地域図書館である本を見かけました。15年ほど前に、背伸びをして借りて読んだ本なんですが、分厚いし重い内容なのもあって、全部理解して読んでない気がします。上下巻でした。
それがこの本。特設ページもまだ残ってることに驚きました。
※特設ページでは、参考文献などをPDFファイルでダウンロードすることができます
今ほどSNSで本の情報を得られる時代ではなかったとはいえ、何故毛沢東なのか(汗)。この本の著者のユン・チアンは35年くらい前に、祖母・母・自分の三世代の中国女性の伝記?のような本を書いています。「ワイルド・スワン」、当時かなり話題になりました。高校の図書室に置いてあったので、これまた背伸びをして読みました(下巻をなかなか借りられなかったのも覚えてる)
その延長なのでしょう。
病気が原因なのか、本を読むというのも気分の波の大きさで「読めるときと読めないとき」の差が激しいです。今もそれは変わりません。こんな「マオ」みたいにヘビーな、「朝からカツ丼」を食べるような本を最後まで読めるかというと、自信がありません。
本を読もう!→しんどくて最後まで読めない→せめて岩波ジュニア新書から読もう→何とか読めた→今度は普通の本を読めるように頑張ろう…の繰り返しで、40代後半近くまできました。
本を読むというのは、どんな本であれ大事なことだと思ってます。あー、岩波ジュニア新書から読もう、のあたりから、野球の本は読まなくなってます。図書館でも野球の本の棚には近寄らなくなりました。たまに相撲の本の棚には行きます。
子どもの頃は本を読むことで、漢字や言葉の言いまわしを覚えましたが、この年齢になると頭が堅くなるのか、身につかなくなってます。漢字検定2級で得点が伸び悩んでるのも、準1級で「こんな漢字や四字熟語は、日常生活で使わないよ」と負け惜しみを言うのも、関係あるかもしれません。
高校時代も、海外文学に触れても「翻訳された日本語が変」と思い込むと、頭から離れずにいました。「この言いまわし、英語での原文ではどう表現されるのだろう」と考えるのが普通です(だよね?)。今の私だったら、英語力が落ちていても「どう表現されるのだろう」と考えます。
それもわずかながらクリアできるようになりました。ドイツ語をまったく知らないから、ケストナーの児童書もエンデの「モモ」も、自分のペースで読めました。
今は好きな本を読めてるくらいだから、病気もだいぶよくなったのかと思います。ただ「マオ」は朝からカツ丼を食べるような本なので、図書館で借りるのももう少し先になります。PDFファイルをダウンロードして読むのか?
図書館で本を探してて、ふと思ったことです。