見出し画像

ソクラテスの死(9/10の日記)

 金曜日。
 今日は一転してひどく蒸し暑い。

『パイドン』(岩田靖夫訳、岩波文庫)を読んだ。

 これはすごい。
 昨晩ベッドで読みはじめて、途中で本を閉じたのに、あまりの感動で、しばらく眠れなかったくらい。今日は昼過ぎに起きて、ハンバーガーを食べたあと、ようやく読了。

 岩田訳では副題に「魂の不死について」と副題されている。死刑を目前にしながら、落ち着き払ったソクラテスが、弟子たちに、魂の不死を語っている。
 カエサルに追いつめられた小カトーは、この本を読んで、魂の不死を確信し、従容として死についたという。
 しかしこの本が、自らの「永遠の生」を確信することで、死の不安を克服するという内容かというと、疑問符がつく。
 なぜなら、肉体の死後、たしかに魂は不死なのだが、多くの場合、それは次の肉体に転生することになる。そして転生の前には、記憶はすべて失われるからだ。そうでないと、今の肉体に、前の肉体の記憶がない事実との整合性がとれない。
 だか転生の際に記憶が失われるなら、そのとき「自己」も消滅するはずである。同じ魂でも、記憶がなければ、その同一性を確かめることはできない。ソクラテスの証明によって、肉体の死に際する「死の不安」はなくなるかもしれないが、それは転生の瞬間まで「死」を先延ばしにすることにすぎない。
 なるほど、「哲学によって充分に己を清めた人々」は、ほかの凡庸な人々とは違い、転生するのではなく、神々の住む「真の大地」に行くということだが、それがどんな場所であるかということは一切語られない。
 つまり、「魂の不死」を論証するソクラテスの議論は、実は「死の不安」を克服することとは直接的には関係ない。
 むしろ本書では、「死の不安」は単なる話の糸口であって、内容としては、ほとんど純粋に「プラトンのイデア論」を語った本ではないか。
 本書のソクラテスが死を恐れずに泰然としているのは、魂の不死を確信しているからではなく、感覚や記憶によって構成された「この私」の意識そのものがどうでもよくなるような、世界の不変の価値を確信しているからだろう。
 死の瞬間、この意識に何が起こるのか?
 本書のソクラテスにはそういう問題意識がなく、はっきり述べられていないのだが、死は、「知恵による、すべての情念からの浄化(カタルシス)」として語られる。
 あらゆる肉体的な情念から解放され、純粋な「知恵」そのものになること。
 ソクラテスの言葉から読み取れるのは、これが死の瞬間に起こる出来事だということだ。
 むかし読んだ本で、ある現代の学者がこんなことを言っていたのを覚えている。
 「生とは、相対的有=相対的無の世界である。なぜなら、生きている人間にはあらゆる物事の「一部」を認識することしかできず、それは相対的に有るか無いかの問題でしかないからである。それならば、死は絶対的有=絶対的無の世界であろう。絶対的に何物も認識できないということは、あらゆるものを完全に認識できることと等しいのではないか」。
 ソクラテスのいう純粋な「知恵」の世界は、ここで言う「絶対的有」のことではないだろうか。
 どちらにせよ、なんとなく観念的な理解はできるような気がするが、実感としては、結局何一つわからない。
 死そのものは不可知なのだから、とにかく「不安」の克服に必要なのは、自己を超える価値への「確信」だけである。

 本書のソクラテスはその「確信」をたっぷり語ってくれている。
 だが、私が思うのは、ソクラテスにせよ、プラトンにせよ、彼らは非常に頑健な男たちだったのだろうということだ。
 病人の経験から言えば、肉体の苦痛は精神にほとんどそのまま反映するものである。この二つを切り離す方法をこそ切実に知りたいのだが、ソクラテスはそれを具体的には語ってくれない。「哲学」なるものの神秘化があるだけである。魂を肉体と切り離せないのは、お前が哲学者ではないからだ、と言われれば、そうかと引き下がるほかない。たとえば仏教ならば、瞑想という実践のメソッドがあった。
 そうなると、足元から冷たさがせり上がってくるという、ソクラテスの静謐な死の場面も、どうも素直には感動できない。単に薬の力で、苦痛なしに死ねたということにすぎないだろう。

 ところで、この本で私が最も感動したのは、「間奏曲2 言論嫌いへの戒め」という章。
 ソクラテスが、魂の不死をイデア論によって論証したあと、二人の弟子がそれに異議を唱える。これが、それぞれ一理ある意見だったので、ほかの弟子たちはみんな「陰鬱な気分に落ち込んでしまいました」。
 なぜなら、彼らの反論によって、死刑を前にしたソクラテスの、せっかく確信していた「魂の不死」が揺らいでしまったからである。
 ところが、ソクラテスは楽しそうに彼らの反論を聞いていた。そして言った。
 「言論嫌いにならないようにしよう」。
 言論嫌いは人間嫌いに似ている。人間嫌いは、ある人を盲信し、のちに、その人の性悪さを発見することを、何度も繰り返した結果、生じる。
 言論嫌いも同じで、何かを盲信した結果、裏切られ、不信=相対主義におちいることである。

 それでは、パイドン、この心の有り様は嘆かわしいものではなかろうか。
 なにか真実で確かな言論が存在し、それを理解することもできるのに、同じ言論でありながら、時には真実であるように思えたり時にはそう思えなかったりするような、なにかそんな風な言論にたまたま出くわしたがために、自分自身や自分自身の心得のなさに責任を帰さずに、ついには苦しみのあまり責任を自分自身から言論へと押しやって喜んでいるとすれば。
 そうなってしまった者は言論を憎み罵りつづけながらその後の人生を過ごすことになり、本当に存在するものの真理や知識を奪われてしまうことになるだろう。

 ソクラテスは、このように「言論」への信を語る。
 さらに、今回の主題は、ソクラテス自身の死に関わる。「死者にとって虚無が待ちうけているのみだとすれば」、「僕は嘆き悲しんで周囲の諸君に不快感を与える」かもしれないと考えているソクラテスは、自らの言論(魂の不死)を、「とりわけ僕自身にそうだと思わせたいのだ」と率直に打ち明ける。

気をつけるのだ。僕は熱心さのあまり、僕自身にをも君たちをも同時にすっかり欺きとおして、蜜蜂のように、針をあとに残して立ち去ってゆくかもしれないのだからね。

 こんな洒脱な一言によって、「陰鬱」になってしまった弟子たちを、かえって励まし、ソクラテスは、魂についての議論を再開するのである。

 私は、ソクラテスとプラトンについては赤子のように無知である。
 『ソクラテスの弁明・クリトン』『メノン』(岩波文庫)、『饗宴』(新潮文庫)はたしかに読んだはずだが、今回の『パイドン』のように感銘を受けたことはなかった。
(ところで、この日記で自分の読んだ書名を数え上げているのは、備忘のためである。ボケた頭で、同じ本を二冊買うことを防ぐためである。)
 しかし、なんとなく、ソクラテスが、問答法によって人々に「考えさせる」哲学者であったのに対し、プラトンはその弟子でありながら、本を書くことによって「唯一の真理」を定めた哲学者であったというイメージがある。漠然とだが、この二人は対照的な人物と思っていた。
 ところが、『パイドン』で描かれるソクラテスは、「すべてのものは変転し、確実なものは存在しない」という「真理」を見抜いたと称し、自ら「最高の賢者」であるとする人々を批判する。そして、むしろ「確実なもの」は存在すると言うのである。
 そうなると、ソクラテス/プラトンの関係に、俄然興味が出て来る。
 本書で語られる、いわゆるプラトンの「イデア論」そのものへの違和感は、すでに述べた。
 私が感動したのは、「世界は不確実である」という真理に安住する人々を批判し、「確実なもの」めがけて言論を展開し続けたソクラテスの姿に、なのである。

 ひとつ疑問だったのは、ソクラテスが信奉する「神々」とは何なのか。ソクラテスは、哲学によって乗り越えるべき「人間らしさ」を、肉体的な官能や欲望に帰しているが、ギリシアの神々というのは、肉体的な欲望を持ったものではなかったのか。
 純粋に理性的な哲学者が理想化されているが、それとギリシアの「神」が一致しないのである。

 夜風にあたりに行く。
 母と妹と。
 どういう話の流れだったか、応援団の話になり、大学野球の応援で歌わされた母校の校歌を思い出そうとするが、一フレーズも出てこない。
 うちの近所も、梨園がつぶれて住宅街になったり、なんだか窮屈になってきた。

いいなと思ったら応援しよう!