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声優とはオノマトペである-アニメ記号接地問題について考える②
前回↑
言語の恣意性-ソシュール
さて、声優とはオノマトペであるとは、どういうことだろうか。
そのことを考えるにあたって、まず一人の言語学者を召喚したい。
現代言語学の父、フェルディナン・ド・ソシュールである。
ここで、論じたいのは、「言語の恣意性」の問題である。
恣意性とは、arbitraire の訳語である。別の言い方をするとすると、任意性、勝手な、気まぐれなという意味を持つ。言語学の中では、言語記号の音声面とそれが指示する意味面との結びつきは必然的なものではなく、社会慣習的な約束事であることを指す。
どういうことか。
例えば、🐕について考えてみると、言語によって「イヌ」や「ドッグ」、「ゴウ」といった全く違う音形であることがわかる。もしなんらかの必然性があるのであれば、そこに何らかの類似性が見られるはずであり、その違いがどこからくるのかと言えば、社会慣習なのだというのが、言語の恣意性の問題である。
この考え方は、その後、言語学者のヤコブセンの音韻論(言語がどんな音から成り立っているかを調べる研究)により、単語を成立させる最小単位の音素は物理学的ではなく、文化的にしか解明できないというものに受け継がれ、それが文化人類学のレヴィ・ストロースが構造主義へと発展させた。
キャラクターの恣意性
では、この言語の恣意性概念を使い、声優とキャラクターのことを考えてみよう。
私がここで言うキャラクターとは絵=記号である。そして、声優はその音声である。
ここには、本来何の必然性も存在しない。どんなに大御所声優であっても毎クールオーディションによって、選ばれる声優がどんなキャラクターを演じるかは、あらかじめ決定される必然性はない。
例えば、山寺宏一ですらオーディションで落ちる。そんな世界なのである。そこには、当然ながら、声や演技の質だけではなく、予算といった生々しい問題もあるだろう。
だから、キャラクターの声は常に恣意的なものとして考えるのは、当然のことだと思われる。実際、ドラマCDなどで、演じていた声優が、アニメ化されると、別の声優になるということは日常茶飯事である。例えば、化物語の忍野忍は、当初佰物語では、平野綾が担当していたが、その後坂本真綾が演じている。
何故、キャラクターの声に必然を感じるのか
声優とキャラクターの結びつきは、恣意的だ。
だが、私たち=オタクは、アニメのキャラクターの声に対して何故か必然性を感じてしまう。それは、何故なのだろう。
例えば、江戸川コナンの声は、高山みなみ以外ではあり得ないし、逢坂大河の声は、釘宮理恵以外ではあり得ない。だが、その恣意性について私たちは普段意識することはない。
この偶然(恣意性)を必然と錯覚してしまうのは、何故か。
私たちは、人間的なレベル(理性)では、キャラクターと声優の恣意性を理解できる。
だが、動物的なレベルでは、偶然や必然すら意識せず、所与のもの(カントの言葉で言うならア・プリオリ)として受け取っている。
この二つの乖離性。人間と動物のOSが、同時に動いていることが、キャラクターの声に必然性を与えるのではないかと私は考えている。
私たちは、常に人間的ではいられない。とはいえ、常に動物的でもいられない。だから、この二つのシステムで、エラー(誤配)が、生じる。
このエラーこそが、私たちが考えなければいけない問題であり、そのエラーによる錯覚が、他者への愛を生み出し、キャラクターと声優の固有性=記号接地を与えるのである。
若干結論めいたものを書いてしまったが、色々まだ説明が必要だろうと思うので、続く。