ファミリーヒストリー
こんばんは、しょうごです^^
JR白浜駅
2001年の2月末、僕の実家の最寄り駅である白浜駅(和歌山県)に、僕の父と外祖父(僕の母の父)、そして僕の姿がありました。
その時の父の様子は思い出せませんが、外祖父が両手を高々と掲げ、パンパンと、手のひらで大きな音を鳴らしました。
僕は、半分恥ずかしい気持ちと、半分は外祖父の気持ちが伝わったのとで、やや複雑な気持ちでした。
当然、気持ちは前に向いていますから、すぐさま特急くろしおに乗り込み、神戸に向かったのでした。
そう、この日は僕が、中国の天津市へ語学留学へ旅立つ日でした。神戸から天津に、50時間ほどかけて向かう船に乗るためです。
戦時中、旧満州に旅立った外祖父
時をさかのぼること、その時点から60年ほど前でしょうか。いやもっと前か。白浜駅よりもう少し大阪に近い駅(恐らくJR朝来駅)から、外祖父もどこかの港に旅立ったはずです。一族や村(旧大塔村=現在の田辺市)の期待を背負って満州(現在の中国東北部)に向かうためです。
当時の満州は、フロンティアとして期待された場所だったので、日本各地から外祖父のように夢を抱き、地元民の期待を背負って、多くの人が旅立ったことでしょう。
多分僕が外祖父から受けた拍手は、彼が自分が旅立つときに近隣の住民や旧大塔村の人々から受けたものだと思うのです。
外祖父の経験は知らずに中国へ
実は僕が中国に向かう時、外祖父がした経験については、ほとんど知りませんでした。だから直接的な影響はありません。
夢をかけて中国大陸に挑み、第2次大戦の終結とともに着の身着のまま帰って来た外祖父。
60年の時を超えて、自分の孫が同じく大陸に向かったのを見て、何を思ったのでしょうか。
想像ですが、彼は僕に若き日の自分の姿を投影していたと思います。
満州にいたころはお金持ちだったそうですが、上述の通りお金持ちのまま帰ってくることは出来なかったようです。大戦後の外祖父は、これといった活躍も出来ず、本人にとっては不本意だったことでしょう。
小説やテレビでやっていた、時代物の主人公に自分を重ねて自らを慰める日々だったかも知れません。
しかし彼の一番下の子供(僕の母)は読書家となり、その子供(僕の母)の子供の中で唯一の読書家となった僕が、偶然三国志の物語と出会い、それが遠因となって中国に旅立ちました。これは外祖父の執念が、2代を経たのち形になったと言っても良いかも知れません。
外祖父は僕に、たった一度だけ中国語で話しかけてきた
そういえば、
僕のいとこのお姉さん (外祖父にとっては別の孫)が外祖父に、中国語話してと言ったのには一切答えなかったそうです。ですが僕には、一度だけ中国語で話しかけてきました。
また、2001年2月~2002年7月期間の中国語学留学を終えて、僕が帰ったあとのこと。中国人の悪口を言う僕に、外祖父は不満のようでした。外祖父は、まだ素朴な人が多かったかも知れない中国の人達に、良くしてもらったのだと思います。
日中友好のかけはし
晩年、外祖父は僕にこう言いました。日中友好の架け橋になって欲しい。なかなかヘヴィーな言葉であり、でも外祖父の言葉だから忘れられるわけもありません。
2003年8月のお盆を過ぎたころ、外祖父は86年の生涯を閉じました。
僕は日本と中国の間にだけ、架け橋をかけようとしているわけではありませんが、各種外国語イベントを主催してきた中で、外祖父の言葉は今も忘れてはいません。
外祖父はすごい人でも何でもないかも知れないけど、その気持ちを受けた人間が間違いなくここに1人存在し、その期待に応えられるよう日々頑張っています。
おわり
PS: 僕は外祖父の生き様や経験の一部を、他の人達にも知ってもらえたら良いなと思っています^^ なので第2弾をいつの日か書くと思います。お楽しみに。昭和のフィクサー,児玉誉士夫についても少し触れると思います♪
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