哲学ファンタジー 大いなる夜の物語 謎その5
謎その5 過去にさかのぼって仕返しはできる?
バスの行く道には、大きな街路樹が多い。車内に差しこむ木漏れ日が、きらきらと流れていく。
石戸さんは『アルゴナウティカ』を、大切そうに鞄の中にしまいこんだ。
「それにしても、隕石が展示される初日に行くなんて、よっぽど楽しみだったんだね」と僕が言うと、石戸さんは、
「うん。それに、今日はちょうど皆既日食の日だし」と嬉しそうに言った。
皆既月食だって、このまえ訂正したのに。でも、今日は訂正はやめておこう。また困ったような顔をさせてしまうかもしれない。
「それも見るんだね、今日は」と僕は言った。
「うん、どこか静かなところで見たいな」
「静かなところ、か」
いつもゴチャゴチャ賑やかな会社でガミガミ言われている石戸さんが、心底かわいそうに思えた。
「あのさ、石戸さん」
「何?」
「その、休みの日にこんな話もなんだけどさ、あの、お天気お姉さん、ほんとうるさいよね」
何か相談に乗ってあげたいという気持ちから、こんな話題を持ちだしてしまった。
少し後悔していると、石戸さんはこう言った。
「ありがとう。でも、大丈夫」
「本当?」
「うん。それに、あの人と私、どこか共通するところがあるというか」
「まったくそうは見えないけど」
「そうかな。あと、それからね、あんまりひどいときは、ちゃんと仕返しもしてるから」
「え、仕返し?」
「ふふ。このあいだ、村松さんが『ミツバチに刺された』って大騒ぎしながら会社に来て、ものすごく不機嫌な日があったでしょ」
「ああ、あったあった」
あの日はさすがに、石戸さんをかばいに入ろうかと思ったくらいだった。できなかったけど。
「あの日の夜、私の部屋の窓から、大きな満月が見えたのね。だからお月様に向かって、お願いごとをしたの」
「お願いごと?」
「うん、『今朝のミツバチさん、村松さんを見かけたら、ちくりと刺してちょうだい』って」
石戸さんは楽しそうに笑っている。
「『今朝のミツバチ』って、あの日の朝のミツバチのこと?」
「そう。そのお願いごとが叶って、村松さんはミツバチに刺されたの」
「あれ、もしそうだとしたら、仕返しをしたせいで、お天気お姉さんは不機嫌になって、石戸さんが八つ当たりされたことにならない?」
「うん。でも、八つ当たりされても、その夜ちゃんと仕返しをしたから大丈夫」
「でも仕返しをすると、お天気お姉さんは不機嫌になって」
「私が夜に仕返しをする」
「でもそしたら、お天気お姉さんは不機嫌になって」
「私が夜に仕返しをする」
あれあれ、ぐるぐる回ってるぞ。まるで、お天気お姉さんが何度もミツバチに刺されて、石戸さんが何度も八つ当たりされているみたいだ。
「ちょっと待って。お天気お姉さんは、何回ミツバチに刺されたんだっけ」と、僕は混乱した頭で聞いた。
「一回だよ。仕返しをしたのも、一回だけ」
どうなってるんだろう。
もし、石戸さんが仕返しをしなかったとすると、お天気お姉さんはミツバチに刺されないわけだから、石戸さんは八つ当たりされることもない。そうすると、仕返しをする必要もなくなる。そうすると、お天気お姉さんはミツバチに刺されない。そうすると、仕返しをする必要もなくなる。あれれ、こっちもぐるぐる回ってるじゃないか。
ぐるぐる回りが二つある。お天気お姉さんがミツバチに刺されて、石戸さんが仕返しをするぐるぐる回り。もう一つは、お天気お姉さんがミツバチに刺されず、石戸さんが仕返しをしないぐるぐる回り。
石戸さんはあえて、仕返しをするほうのぐるぐる回りを選んだのだろうか。でも、石戸さんが仕返しをするほうを選ぶには、その前に、お天気お姉さんが石戸さんに八つ当たりをしないといけない。ということは、まずはお天気お姉さんがミツバチに刺されなきゃいけない。でもそれは、石戸さんが仕返しでやったことだった。けれども石戸さんが仕返しをするには、八つ当たりをされないといけないから、まずはお天気お姉さんがミツバチに刺されてくれないといけない。でもそれは石戸さんが仕返しでやったことで、だとすると、ああ、またぐるぐる回ってきりがない。
一体どうやったら、仕返しをするほうのぐるぐる回りを選んで、そっちに入れるのだろう?大きな満月がそれを叶えたのだとしたら、どんな力で叶えたのだろう?
とにかく、石戸さんが願いごとをしたのは事実だ。だとしたら石戸さんは、お天気お姉さんの八つ当たりも含めて、そのぐるぐる回りをまるごと引き受けたということだろうか。一体なぜ石戸さんは、そんなものを引き受けたのだろう?
僕はもうすっかり、石戸夕璃のツアーを満喫しているようだ。
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