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インクルーシブ哲学へ⑫:箱庭と、自分の陣地
▲前回
2024年5月19日
■会:箱庭の会
■会場:アトリエまくらのいきおい
■主催:諸岡亜侑未さん、橋本佐枝子さん
箱庭療法で知られる「箱庭」を作るという体験を、初めてさせていただいた。
おびただしい数の物の中から、物を選び、砂の敷かれた箱の中に置いていく。
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自分で物を選ぶ。選択する。
前の日に読んだ本の中で、マルセル・デュシャンはレディー・メイドについてこう語っていた。
どうして「つくる」なのでしょうか。「つくる」とは何でしょうか。何かをつくること、それは青のチューブ絵の具を、赤のチューブ絵の具を選ぶこと、パレットに少しそれらを載せること、そして相も変わらず一定量の青を、一定量の赤を選ぶこと、そして相も変わらず場所を選んで、画面の上に色を載せることです。
デュシャンにとっては、絵を描くことも、既製品の中から選択をすることなのだ。
そして、人生は選択の連続で、だから私たちはレディー・メイドに囲まれているとも言っている。
箱庭作りでは、既製品の中から物を選択し、既製品である箱の中に置いていく。
言葉を使うときであっても、そうではないだろうか。私たちは、既製品の単語の中から選択をして、言葉を置いていく。言葉の世界でも、私たちはレディー・メイドに囲まれている。
さて、私が物を選択し、置き、できあがった箱庭はこんなふうだった。
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自分でもよくわからないような自由な創作をしたいと思ったが、結局できたのは、自分がその中にいる象徴的世界だった。
二つに隔てられた世界。華々しいパレードが行われる対岸をよそに、私は落ちてきた物が何なのかを見ようとしている。
ほかの方々が、感想を言ってくれたり、質問をしてくれたりした。
「この大蛇は何ですか?」
「とにかくこれは最初から置きたかったんです。」
「蛇が大地を分けた!」と諸岡さんが言った。
もちろん精神分析の言葉ではないが、私にとってはものすごくしっくりくる言葉だった。
大地を分けた蛇とは何だったのか? という問いが私の中に残った。
ほかの人が箱庭作りをしている間、諸岡さんはこんな話をしてくれた。
箱庭は自分の世界であり、置いてあるものには大事な意味があったりする。だから、本人以外の人に手を加えさせるのは危険なところがある、と。そこはデリケートな問題がある、と。
箱庭作りをやってみて、たしかにそうだと思った。
箱庭は、言ってみれば、パーソナルスペースの飛び地。安心安全な、自分の陣地。
ほかの人に手を加えられるのは抵抗があるかもしれない。
とはいえ、自分の箱庭について他者が言葉を発しても、他者は箱庭に手を加えるわけではない。
他者の言葉が違うと思えば、箱庭の主は「そうではない」と言うことができる。
それどころか、諸岡さんの言葉のように、深い発見や問いをもたらしてくれることもある。
箱庭を自分の陣地としながら、言葉をやり取りをする(言葉で対話する)ことがとてもしやすいと感じた。
藤中康輝さんの《おく》の体験について、前回の投稿では書いた。
《おく》では、自分が選択して置いたものであっても、それは自分の陣地を形成しない。
相手が選択して置くものによって、自分の置いた物は変化していく。
たとえば、自分が置いた物の上に、相手が何かを置くことができる。
そうすることによって、置かれた物の意味が変わっていく。
それが《おく》の自由さと、オープンさと、対話性だ。
箱庭と《おく》を組み合わせたら、どうなるだろう?
自分の陣地がありながら、共有地もある。
自分の陣地は、安心と内省の場。
共有地は、物によって相手とかかわる場。
場ができあがったあとに、言葉で対話してもよいかもしれない。
自分の陣地については、自分のことがわかっていく。
相手の陣地については、相手のことがわかっていく。
それらの間にある共有地については、自分と相手のかかわりかたがわかっていく。
そんな体験もしてみたいと強く思った。
追記 哲学対話のように、言葉だけで対話をするとき、自分の陣地はどこにあるのだろうか。
自分の発した言葉が陣地を形成するとも言える。その言葉の意味を知りたいときには、本人に尋ねるのだから。自分の発した言葉は、自分の持ち物のようになっている。
だとすれば、言葉を一度も発しないでただ考えているとき、その場に自分の陣地はない。
これは居心地の悪いことかもしれない。「話さずに考えているだけでいいんですよ」と言われても、その場に自分の陣地がないのだから。
問い出しをするときの自分の問いは、自分の陣地になるかもしれない。だとしても、その問いが採用されなかったら、心細いかもしれない。
そこで、箱庭のように目に見えるかたちで、自分の周りに陣地となる言葉を置くのはどうだろうか。たとえば、自分の問いだけでなく、自分の好きな言葉や、お守りになりそうな言葉などを、書いて置いておく。そんなこともやってみたいと思う。
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