すごい? かわいそう? 日本人初の世界一周記録
記録上、日本人で初めて世界一周した人物をご存じでしょうか?
あるいは「望んでもいないのに世界一周するハメになった」と表現したほうが正しいかもしれません。
実は4人います。今回はそんな人物たちのお話です。
漂流すること約半年
江戸時代、仙台藩(今日の宮城県)では石巻を中心とする港町が発達し、多くの船が江戸と仙台を行き来しました。しかし、海流と風に頼るところの大きかった当時の海運に、遭難の危険はつきもの。時として海は荒れ、船とその乗組員を漂流させました。
当時、石巻から江戸に米を運んでいた仙台藩の江戸廻米船「若宮丸」もそうした漂流を経験した船のひとつでした。
特筆すべきは、船の乗組員だった津太夫、儀兵衛、左平、多十郎の4人が、記録上、日本人で初めて世界を一周した人物たちになったということです。
経緯を詳しくみていきましょう。
寛政5(1793)年11月、若宮丸が石巻を出航しました。
こう表現されてもいまひとつイメージがわきにくいかもしれませんが、若宮丸は、800石積み・24反帆という、120トンくらいの積荷を載せることができる大型の船、いわゆる「千石船」です。積荷は米1332俵(約80トン)と藩の御用木材が400本。乗組員は16名で、その中に津太夫らの姿もありました。出航時の年齢は津太夫が49歳、儀兵衛32歳、左平31歳、多十郎23歳です。
石巻を出港して2日後、津太夫ら一行は、塩屋崎(福島県いわき市)沖まで進んだところで暴風に見舞われました。
舵を折られた若宮丸は、なすすべもなく海に浮かび、漂流すること約半年。津太夫らはようやく陸地にたどり着き、ロシア領アリューシャン列島の一小島で親切な島民に救助されます。ただ、島についてまもなく、船頭の平兵衛が病死してしまいました。
通信技術が発達した今日においても、船で海の上をあてもなく漂流するのはとてつもなく恐ろしい体験だと思います。しかも、それが半年も続いたわけですから、その恐怖たるや想像を絶するものがあります。
加えて、江戸時代の人たち(特に庶民)はあまり日本の外の世界を知りませんでした。四方どこを見渡しても水平線しか見えない漂流の不安や恐怖は、現代人の感覚で言うと宇宙空間に放り出されるくらいのレベルだったかもしれません。
異国の地で日本人と出会う
さて、ロシア領アリューシャン列島の一小島で親切な島民に助けられた津太夫らは、その後、ロシア役人の案内で島を移り、カムチャッカ半島の南端を経由してロシア本土のオホーツクに上陸しました。そして、そこから3班に分かれて馬に分乗し、寛永8(1796)年にシベリアの中心都市イルクーツクに到着。彼らはここで実に7年もの年月を過ごします。その間に2人が亡くなり、残された漂流民は13人になりました。
イルクーツクで津太夫らの世話をしていたのは、なんと日本人でした。
名前は新蔵。彼もまた漂流民であり、津太夫たちの11年前に船で遭難してロシアにたどり着き、イルクーツクで日本語教師・通訳として暮らしていたのです。ちなみに、新蔵は遭難時、あの大黒屋光太夫の船・神昌丸に乗っていました。大黒屋光太夫と言えば、歴史の教科書にも載っている有名な漂流民ですね。実は当時イルクーツクにはもうひとり庄蔵という日本人がいて、若宮丸乗組員らの世話をしていたのですが、すぐに病気で亡くなっています。彼も新蔵と同じく大黒屋光太夫の船の乗組員でした。
自分達と同じ漂流日本人でありながら、ロシアでの暮らしにすっかりなじんでいる新蔵と出会ったことで、津太夫ら一行のなかにもこのまま日本に帰らずロシアに残りたいという人たちも出てきました。悲しいかな、この時、帰国派と残留派で漂流民たちの間に対立が生まれたそうです(ロシア政府が残留組を優遇したのでなおさら)。
首都サンクトペテルブルクでロシア皇帝に謁見
イルクーツクで7年を過ごしたあと、津太夫らはロシアの首都サンクトペテルブルクに呼び出されました。
この頃、ロシア政府は本格的に東方進出に乗り出し、日本との通商交渉を進めようとしていました。そこで、当時計画していた世界一周の探検航海で最後に日本に立ち寄ることに決め、漂流民を「手土産」に通商交渉を有利に進めようともくろんでいたというわけです。
津太夫らがサンクトペテルブルクに到着したのは享和3(1803)年4月のこと。首都に向かう旅の途中で3人が病気で離脱したため、若宮丸の乗組員は10人になっていました。離脱した3人はイルクーツクに送り返されたそうですが、その後の詳細は不明です。
津太夫らはサンクトペテルブルグで歓迎を受け、ロシア皇帝アレクサンドル1世に謁見しました。この時、皇帝から帰国の意思を問われたので、6人が残留を希望し、津太夫、儀兵衛、左平、多十郎の4人が帰国を希望します。
イギリス船に砲撃され、嵐で南極近くに流され、鬼にも出会う⁉
首都サンクトペテルブルグを離れるまでの間、津太夫らは博物館やオペラハウス、天文台、気球の飛行実験などを見学し、最先端の異国の文明・文化に驚きました。
そして、首都到着から2か月後の同年6月、津太夫ら4人は、通商を求めて日本に向かう遣日使節レザノフの世界周航船ナジェージダ号(船名はロシア語で「希望」という意味)に乗り、いよいよロシアから旅立ちます。
津太夫ら乗せたナジェージダ号はその後、デンマーク、イギリスなどに寄港しながら大西洋を南下。南アメリカ大陸を南から回って太平洋に出ると、ハワイ島、カムチャッカ半島を経て、文化元(1804)年9月6日に長崎に着きました。
途中、北海ではフランスとイギリスの戦争に巻き込まれ、フランス船と間違われてイギリス船から砲撃されたり、南アメリカ大陸南端のホーン岬を通過する際には暴風によって南極近くまで流されたり、太平洋の島で身長2メートル・全身刺青の住民に遭遇して鬼だと勘違いて驚いたり、津太夫らはこの航海でもいろいろと大変な目にあったようです。
とにもかくにも、こうして津太夫らは漂流後、世界を西まわりにぐるりと一周してようやく日本に帰って来ることができました。若宮丸が石巻を出港してから11年後のことです。
漂流体験が本にまとめられて後世へ
しかし、ここからがまた大変でした。
ご存じの通り、当時の日本は鎖国の真っただ中。徳川幕府にとってはロシア船も漂流民も「招かれざる客」です。ようやく2ヶ月後に上陸許可が出されたものの、使節レザノフも津太夫らも長崎出島近くの館で軟禁状態にされました。
通商交渉も漂流民の受け渡しも進展しないまま時間だけが過ぎていくなか、今後の日本での生活に絶望した多十郎が小刀をのどに刺して自殺を図るという悲しい事件も起こります。幸いにも一命をとりとめましたが、その後、多十郎は二度と声を発することができなくなったそうです。
長崎到着から半年後、ようやく幕府は漂流民の受け取りを認めましたが、ロシアとの通商は拒否して「二度と日本に来るなよ!」とレザノフを追い返しました。
一方、津太夫ら4人は、引き続き長崎で2ヶ月の取り調べを受けたあと、仙台藩の役人に引き渡されて江戸に送られます。そこで藩命を受けた2人の蘭学者、大槻玄沢と志村弘強から漂流体験の聞き取り調査を受け、またもや2ヶ月間、江戸に滞在することになりました。
ちなみに、大槻と志村はこの時、津太夫らから聞いた内容をのちに『環海異聞』という本にまとめ、文政4(1807)年に時の藩主・伊達政千代に献上しています。今日の私たちが津太夫らの漂流時のエピソードを詳しく知ることができるのも、この本のおかげです(ご覧になりたい方はこちら)。
12年ぶりの故郷
江戸で2ヶ月間の聞き取り調査を終え、文化3(1806)年2月、津太夫らは実に12年ぶりに故郷に帰ってきました。故郷の人たちは若宮丸の乗組員16人全員が死亡したものとしてあきらめ、七回忌のタイミングで立派な供養塔を立てていたそうです。死んでしまったとあきらめていた人たちが生きて帰ってきたわけですから、さぞ嬉しかったことでしょう。
しかし、喜びもつかの間、その年のうちに多十郎と儀兵衛が相次いで病気で亡くなります。多十郎36歳、儀兵衛45歳でした。
津太夫と左平はその後、幕府の蝦夷地調査の際にロシアの情報を提供するなどしたそうですが、のちのジョン万次郎のように幕府や藩から特に重用されることもなく余生を過ごしました。津太夫は帰郷から8年後に70歳で、左平は帰郷後23年の年月を過ごして67歳で亡くなりました。
津太夫らが記録上、初めて世界一周した日本人でありながらも世にあまり知られていないのは、やはりそれが自分たちの意志に基づかない「望まぬ旅」だった点が大きいのでしょう。ものすごい体験をしたことは間違いないのですが、諸手を挙げてそれを賞賛できるわけではなく、かといって「かわいそう」という言葉で片づけてしまうのも必死で生きた彼らに失礼な気がして違和感があります。
いずれにせよ、あまり楽しく明るく語れないという点が世に広まりにくい要因ではないかなと思う次第です。実際、今回の記事って他と比べてトーンが暗いですよね。最初はもっと軽いノリで書こうかと思ったのですが、まあ無理でした。
もっと津太夫らについてもっと詳しく知りたい方は石巻若宮丸漂流民の会さんのサイトにどうぞ。今回の記事を書くにあたって参考にさせていただきました。
最後までお読みいただきありがとうございました。