明のイントロダクション「カゲロウ」(05)
バーベルを落とすとともに、手を下ろした。上半身には熱気と汗がまとわりついているが、コンプレッションタイプのスポーツウェアはすぐにそれを振り払ってくれる。一仕事終えたのと同じ類の疲労感と達成感を覚えつつ、体を起こす。ベンチプレスの前には腹筋のワークアウトをしたので、体を起こしたとき腹筋に痛みが走った。床のタオルを拾い、顔の汗を拭う。首にタオルを回し、少し顔を下に向けて休んだ。人から疲れた表情を隠すにはこの体勢がいい。頭を伝って落ちてきた汗をタオルで優しく叩いた。床に立ててあったプロテインシェイクに手を伸ばし、一口飲む。チョイスニュートリション社製、シナモン味だ。今まで色々なメーカーのものを試してきたが、これがいい。この会社は私達のトレーサビリティを重視している上、人工香料と人工甘味料を使っていない。他のメーカーはプロテインシェイクの味を良くするために多量の合成甘味料を使用するが、チョイスニュートリションは、本物を使う。シナモン味ならシナモン。抹茶味なら抹茶だ。
自然から由来しないものを体に取り込む行為自体が、私は自身の肉体を鍛錬するにあたって適切な行為とは考えられなかった。自然由来の食物に含まれる微小な放射性物質を体内に取り入れることが出来なくなるためだ。人間を筆頭とした動物と一部の肉食植物は、他の生物を食することで栄養素を体内へ迎え入れてきたが、その食物連鎖のどこかでなのかもしれない、我々は、体内に放射性物質という多量であれば自らを殺しかねない類の物質を体内に有している。体内含有率の高いものでは、カリウム、炭素のラジオアイソトープなどが挙げられる。これらの存在は、我々が食物連鎖というシステムにとらわれている以上はいやおうなしに受け入れなければならぬものなのか、それとも我々が進化の過程で、意図的に選択してきたものなのかは、神のみぞ知るところだ。そこで、自然科学がこの謎を解かない限りは、私は後者の立場に立つことにして、自然由来の食物を敢えて選んでいる。おそらくだが、私の命が火を灯している間にそんな日は来ないだろう。
シャワーを浴びて、髪の水気をタオルに吸わせる。許容される程度まで髪の水けを拭き取ったら、体の上の部位からタオルを当てて全身から水滴を拭った。体の上から水気を取る方が効率が良い。シャワー室のカーテンを開け、ロッカールームへ向かう。胸筋が傷ついていて、腕を軽く振ることすら億劫に思いながらも、腕を上げてドライヤーで髪を完全に乾かした。ロッカーを開け、その中にかかる自分のスーツを着た。少し周りを見渡し、誰もいないことを確認してからナイフが入ったホルスターを素早く取り出し胸部に装着した。流れるように拳銃をズボンに差し込む。左側に重さが集中するいつもの感覚だ。後ろから男が歩いてくるのが聞こえた。念押しするように、速やかに背広を着直す。振り向くと、見慣れたスキンヘッドの男がいた。名前は知らないが、私と同じくここに通っているため、顔見知りだ。彼は丸太のような体をしている。全体的に私よりも一回りも二回りも大きいのだが、何と言っても首回りに至っては丸っ切り歯が立つ気がしない。その首を使って彼は私に会釈をした。小さく、ああどうも、と返す。彼は私の返答を横目で見ると、広い背中を私に向け、シャワー室の方へ消えて行った。ジムに付属のバーに寄り、もう一杯プロテインシェイクを飲むと、香山との約束を果たすために駅へと向かった。
私は香山と三年ほど一緒に働いている。三年という期間で、私が人を殺めたのは三度で、人数は四人だ。人に拷問じみたことをしたのは二度で、二人。合計で、私はたったの五回しか出勤していないことになる。それでもこの三年は、贅沢な生活への無関心という私の性格のおかげで、なんの苦労もなしに過ごすことが出来た。計算ではあと二年は仕事をしなくてもよい。ここまでの生活を送れるようになるとは、中学を卒業してすぐに土方の仕事に就いた頃の私には想像もつかぬことであった。
自分の仕事は、人を傷つけたり、人を殺すことだ。同種の生物から命を奪う行為は、国家システムによる重い処罰を伴うし、視覚できない抑圧に反抗する人間の本能的な衝動を同時に殺すこと、らしい。自分が今までにこなしてきた仕事の数と、日本の治安状況を考えると、死刑も存分にあり得る。だが、懲役の可能性があることのみが、ひどく面倒に思えた。